太陽が東の空に昇って、闇を滅ぼし、、すべてのものを育てるように、
仏は人々の間に出て、悪を滅ぼし、善を育て、智慧の光を恵んで、
無知の闇を除き、さとりに至らせる。
仏は、その寿命に限りはないが、欲を貪って飽くことのない人々を目覚ますために、手段として死を示す。
月が隠れると、人びとは月が沈んだといい、月が現れると、人びとは月が出たという。
けれども月は常に住して出没することがない。仏もそのように、常に住して生滅しないのであるが、
ただ人びとをを教えるために生滅を示す。ただ人びとの見るところに従って生滅、月の満ち欠けがある。
仏もそのように変わりはないが、世の人々に従って、限りない姿を示すが、仏は永遠に存在して変わることがない。
仏がこの世に現われたことも、また隠れたことも、因縁を離れてあるのではない。
人びとを救うのによい時が来ればこの世に現われ、その因縁が尽きればこの世から隠れる。
すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。
網の目が、互いにつながりあって網を作っているように、すべてのものは、つながりあい関係しあってできている。
雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びる。
これは永遠不変の道理である。みな移り変わり常にとどまらないということは、
天地の間に動くことないまことの道理であり、これだけは永久に変わらない。
正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。
まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。
この世は夢のようであり、財宝もまた幻のようなものである。絵に見える遠近と同じく、
見えるけれども、あるのではない。すべては陽炎のようなものである。
参考資料仏教聖典
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