線香は厳粛(@おごそかで心が引きしまるさまAおごそかで動かしがたいさまB真剣で、きびしいさま)な礼をする仏様へのもてなし、
お香は気楽(@気づかいや気苦労がなくて、のんびりしていることA物事を深刻に考えないで、のんきなこと)なご自身の嗜好品。
(お線香は香を線の状態に固めたもので、高い存在へ自身が線香のように真っ直ぐ礼をしてそのお気持ち通りの礼の香りを差し上げる。お香は香りの総称で香におをつけて様々な香りや形がある。お線香とお香かの違いは、仏様に供えるものなのか、楽しむためのものなのかで一般的には区別されているが、気の持ちがいい自身が気持ちいい香りは嗜好品である場合が多い。周りの人と礼をする席でも香りは使われるが、もてなしに自らに配慮して、ご都合で欲のために失礼して短く折った女郎がいたという。心配りの配慮と自身の心配。寝かせて倒れていたほうが安心、何も気にしないでいい、信じれば救われる簡単な教えがあるのは今いる世界から。)
普段のお稽古で悪魔の投げた楽の甘い餌に間違え掛かると、簡単で楽な事でも億劫で苦痛になり、堕落してもう正常には戻り難いといわれる。
お線香のもてなしで家族の人生が変わる☆★☆仏教ではほしいなら先に相手に与えなさいという。ここだけの話ですが仏壇も墓も線香も購入するだけでは仏様が元気を無くしてしまう。仏様の食事といわれるお線香、好物の甘茶香をもてなせば、ご先祖様は元気になりご家族に愛と幸の後に利益を授ける。奈落に堕ちるのは自分の掴み易いのをつかんでいき、手を合わせるだけになり、そのうちお辞儀して失礼する。
まだお線香が燃えているのに席を離れて失礼したり、お線香を失礼するとその結果の未来が待っている。
葬儀で落ち着いて礼をするのに相応しい沈香の香りや、茶席で穏やかに礼をする白檀を線状にしたものが入ったお線香で、家庭のパワースポットといわれる仏前でお稽古もしていないでお茶席でいけない香水や休息の花の香りをばかり使うと気が楽な様がお使いから戻ってくる。
三つ子の魂百までだから廃悪修善(はいあくしゅぜん)。
年齢を重ねてからだと自分の我が固まり柔和でないと教えてもらっても実行は難しい。
全ての人が善人になればもう善人はなく普通の人になってしまうので誰も教えてはくれない+☆+ 「大丈夫」というのは言葉のもてなしで本当に楽の世界へ行けるのか?極楽へは阿弥陀様にお救いあげて頂いて、自分が救われた後のあの世では、今度は人を救うお勉強をするといいますが、あの世で学びの場所である国公立の大学は狭き門かもしれません。
全ての人の置かれた環境が違うので様々な束縛から逃れようと争いになる。
陰の人、空腹の人々は満腹と陽を求めて動く。満腹の人々はお腹がいっぱいで動けない。
霊気と地気の交わりで新しい動きが始まるように、世界も満腹の世界へ空腹の人々が移民しそこに新しい風を生む。今も昔も変わらない・・・食べていくのに必死な人と、食べるのには不自由しない人。ご先祖様の徳(相手に有り難いと感謝される)の積み重ねの結果に今がある。子孫が繁栄するには貴方が今沢山の人を満たして基盤を作っていないと、生まれた時に社会で満たす立場の環境になっていない子孫は環境が悪く楽だけれど繁栄は難しい。物を販売するにも相手を何かで満たすと売れる・・・
習慣で同じ毎日線香を供えるのが良いと思っている人は勉強不足?
家庭の仏壇で子供を上手く教育する(理論がついてなく行うだけになっていて、仏壇は教育の場所と解からず家族では行えず、仏の使いとして菩薩行である指導が出来ずいつまでも救われる立場)、人生の荒波を豊かに進むのは難しい・・・。子供も手を合わせ供えるだけでは習慣になるだけで智慧も心も入らない。一緒に行い子供に例え話やなぜ仏様が喜ばれるというお話が必要です。
同じ薫りに囚われ自由が利かなくなって、毎日同じ線香だとご先祖様も飽きるかなと相手を察することすら怠慢になり出来なくなっている。参ることや焚く事だけに価値を見出している人が多いようですが習慣の病になり本来大切な気遣いも出来ない。
仏様の好きな思いやりが抜けている+++
お線香を供える時にはお線香のように真っ直ぐにご自身を整え、相手から見て好ましい状態で美しいおもてなしをする。お線香が燃えた後に灰になって次の真っ直ぐなお線香を立てるの土台になるように、途中で消えたりしないように最後まで失礼のないよう礼を尽くして次へつなぐ美しい伝統の土台になるよう振る舞うことが好ましい。
あんまり難しいことをいったり望むと重くなり、先人が築いた美しい伝統や金山ももっと崩れる恐れがありますからまずは軽い緩い飴の策で土砂崩れの気晴らし、そして前を向かせてそれ以上堕ちるのを防ぎ真剣を握る機縁を残す方法もあるという。
仏壇もお墓も置いておくだけでなく家族一緒にご先祖様を思いやりで察し接待して日々与える事が大切です。家族を大切にする、ご先祖様を大切にするのは一番大切な事で人生の基盤になりますが、ご先祖様だけ大切にするのは我が子可愛さのあまり他に施しをしないで餓鬼道に落ちた母を救うお盆の始まりと同じなので、ご先祖様もお世話になるご先祖様以外にあたる仏国の君主の誕生日にはお接待してあげてもいいですし、施餓鬼で恵まれない餓鬼に接待しても、社会で恵まれない人に接待(お金だけでなく無財のもてなし)しても良いでしょう。
環境の良い人も悪い人も、毎日の社会生活で周りの人々を察して、
皆が無財のもてなしをしようと心の片隅において意識していればもっと皆の環境が整い好くなる相手に光を与える方法を、それを皆知らない・・・親が知らない・・・教えられない・・・
環境が悪い・・・今までそんな話を聞けない環境も。
安逸で大切なものを失い堕落した人をすくうのは貴方のもてなし・・・。
何人が意識しているのでしょうか?お経は読めなくても、お経が読めても、お経の意味の一部に当たる無財のお布施などを知って行っているのは?
心の余裕が無く、ご先祖様や仏様、周りの人々を察し出来ずに
世の中では相手に闇を与え、周りの人々の環境を落とす人もいる・・・
最近は皆が極楽へ行くので、仏の使いとして降りて来ると言っても極楽もいっぱいになって来る・・・
石川五右衛門の時代から閻魔大王が極楽へ行ける人の数を規制しているようです。
赤鬼、青鬼などにも仕事を与えないとリストラしないといけません。
好い事しか皆さんは言いませんが仏様の我々を救う使いも来ますが、
阻止する沢山の使いも降りて来ているのでは?
世の中では生まれた時から仏の使いとして救済・満たし与える立場で生まれる者と、仏に成れず輪廻してまた欲望を求め満たされ救済される人に生まれる者がいる。後に変わる者もいる。
皆が同じところへ行くのではなく仏に仕えるお寺でも階級があるように
九品仏といい、極楽浄土には九つの階級がある。
虫も一匹も殺生しなかった人は一番上にいけるそうです。
極楽までは悪人も一生懸命極楽へ導くが、極楽へ着いてからは如何でしょうか?
お盆にはお墓までご先祖様を迎えにいく、お盆の送りには暗闇で迷わないよう送り火で送り出す、舟で旅路へ送り出す。
全て相手を察する思いやりと他を誠心誠意もてなす真心を頂く行事。
自身の利便から、販売者も購入者も心なく習慣で行っていた義務であるお盆に供えるご先祖様が行き来するといわれるキュウリとナスは模型になり、三途の河の橋渡し賃は紙になり無くなった。滅法が近づき形式だけでなく一般の人が?住職が?宗教心が無くなったといわれますが、お盆の行事・法事・葬儀など手間がかかり知っていることを行うのは面倒なのですが、一般の人の曇りを祓う光の行事。自らの時間と知力と財力と体力と精神力を犠牲に自らが相手の橋になれなければ自分の利便で餓鬼道へ。いつも同じでは心に青い潤いの動きが出来ない?
お盆には地獄の釜が開くといわれ地獄からやっと抜け出るチャンスを頂いたご先祖様、又は極楽行きが決定した仏に成られるご先祖様が長い旅の途中でわざわざ戻られるそうです。
仏様を労い、馳走して探しだし後生の大好物甘茶でお接待してあげると喜ばれます・・・
仏様へ好物のもてなしでご先祖様に功徳を回し向け旅路の安全と仏のご加護を祈念しましょう。
自分の命と引換えに他をもてなす仏様の好物、花と線香と蝋燭のように
自分の時間と体力と精神力と財力などを犠牲に他を察して誠心誠意もてなすのが喜ばれます。
花は心に潤いを、線香は香りの安らぎを。蝋燭は希望のお光を与えてくれます。
ご自身はご先祖様へどんな潤いを与える事が出来るのでしょう?またご先祖様だけでは餓鬼道に落ちるといわれますので沢山の人の有り難い橋になりその自分の上を通って頂いて光輝く向こう岸に渡って頂ければ好いといわれます。
動き無く自分の好きな薫りだけに貪り、ご先祖様だけに囚われるのは餓鬼の道で水のように腐ってしまう。
死ぬまでに、この世もあの世も一度はお供え甘茶香。
あの世の君主へ大好物のお接待、手土産はあの世でも気に入られる縁起です・・・
相手の事を察すれば毎日同じお線香なら、仏様は飽きてしまいます。
自分の利便で安逸な接待は相手に届かず全て火炎になり消える+++
寒い雪の降る夜にお地蔵様を察して好物の笠をもてなすとお地蔵様から自分のほしいものが届いた。
餓死寸前の老人に兎は自らが相手の好物になり、自分の身を炎の中へ投げ込んでそれを老人に食べさせようとしたら、老人は天の神だったので兎の犠牲奉仕のやさしさと愛をほめ、うさぎの好きな月の世界へ住ませてあげた。
仏様の大切な日に仏様の好物を先にもてなすと自分の好物が届いた。
生前ご先祖様に好まれた物が喜ばれるのは相手を察したもてなしから・・・(好物は食べるものだけではない)
仏様の生まれた後のお盆には、仏様は旅の途中で戻られる。
ご先祖様・仏様に願いを叶えて貰うには、自分の好物でなく仏様の生まれた後生、相手の好物が好ましい・・・★★★
自分の利便で毎日同じお茶や水では無く、仏様の生まれた命日には仏様のお誕生を祝う甘茶をお接待。特別なおもてなし。仏様のご馳走といわれる甘茶も、人間のご馳走も、
お客様をもてなすのに昔は馬に乗り様々な所から走り回って集めてきてお接待、おもてなしをしたので馳走といわれます。
簡単に手に入るものにご馳走はあまりない・・・(有り難くない)
言い訳が上手くなると自ら向上の芽を摘んでしまうといわれますが、
己を忘れて好き嫌いなどいわずにご先祖様が喜ぶならやってあげましょう♪
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喜びたいから喜ばせたい・・・、クリスマスから花祭り・・・、誕生日から命日。
神仏では自分が欲しい(求める・願い)なら先に神様・仏様を楽しませよ(神楽は神様の好物の舞を神様に接待しますので人間の客席は無い)といいますが、天には与えたもので降りてくる(お布施や御餞(祈祷)初穂料の金額で戻って来る物が違う)、地には与えたもので咲いてくる。(仏様の喜ぶ甘茶香を自分の周りの地に種としてをまけば、奉仕の花が咲いてきて自分の環境が好くなる)
神様と仏様の両方に好かれる人の願いが本当は叶う・・・☆
生と死。陽と陰。白と黒。天と地。クリスマスと花祭り。神様と仏様の片方にしか好かれないなら利は結べない。
仏の行いは低い彩度で沈んで目立たず、暗くて濃い色で重く、寒色で後退しているように見える行事ですが(地味色、重量色、後退色)、地に足がついて自分の人生を静かに省みたり進んだりする大切な陰気な行い。その行いまで自分達を動物や強靭な体の英雄、様々な化粧が助けてくれるような現実を忘れる浮いた空想の陽気な世界になればこの世は夢(派手色、軽量色、進出色)。しかし現実の日常から全ての陰を捨て離れることは万民には叶い難い。
普通、毎日地に足が付いて生活する重く暗い習慣の獄中と囚われの牢獄を嫌い、普段と違う明るく軽い浮いたものを求め空を自由に飛び人を救うといわれる天使に憧れる。
一生を地で生活する蟻がやっと天使になれた羽蟻。蟻を救う使い。飛び魚は愛せても、羽蟻を利害から愛せはしない。
仏様を察しない自己満足のもてなしは全て火炎となり消え失せ伝わらない+++
徳の種は思いやりと真心を栄養にするので幸せの花を咲かせる前に枯れてしまう。
お金を出して経を読んで貰っても仏壇を買っても年に一度だけしかお参りしない形式のようにお金しか出していないので簡単には幸せは訪れない。体が動かずご先祖様をもてなしたいけれど出来ないので仕方なく墓参りの代行は好いけれど、新幹線の往復代が3万円掛かるので代行なら1万円で済むと自分の利を考えたもてなしは相手に届きはしない。ご先祖様も閻魔様もみているそうで毎日の生活でお線香を思いやりで供える毎日の徳の積み重ねが将来に大切☆
朝はご家族の一日の安全を先に仏様のご馳走甘茶香を供えて仏様のご加護をお祈りする清浄甘茶香や法華経で頑張る誓いを起て、夜には静かに一日の自分を試みる沈香甘茶香や阿弥陀経で反省して一日の塵を洗い流して明日への希望の土台とする。朝は明るくご先祖様にお願いを発して昇り、夜は静かに内を清めて降る繰り返し。
人は良い師に逢って見出されるといいますがその出会いも環境を整えないとご縁が来難い。
形を整えると笑う門には福来るというように、人は服装通りの人間になるというように、看護婦、兵隊他の正装を着ればその精神が宿ります。言葉遣い、服装、動作を相手にとって好意のもてるように形を正し整え演じれば、自分が変わり周りが変わり良縁が来易くなります。
教科書を読み、見て、親に教育され最初は演じていてもそれがいつか普通になれば良い。
お線香やお香を焚く時間を持つことは様々な事から救われる・・・。
陰気が宿り病気になったり、形式だけで意味も解からず気だけ救われている心ない人もいる。
【大丈夫】それは相手からの言葉のおもてなし。気を救う為に陰に落ちた貴方の闇に射した一筋の光。求めて得られないのは苦しみ、良いものを見て求めないのは難しく目をくり抜くのは愚かである。世の中が平和になり好くなるにはどんな人でも欲は起こるが、環境の整わない人も欲する心を抑える訓練をしようと思う人が増えないと難しい。環境の悪い人の方が求める物が入り難い。求めて手に入ってもまた違うのがほしくなり満足はしない。文章も読んで右から左に抜けていても満足する人もいるけれど、頭の片隅に残してそれを今後活かそうとする人が増えないと世の中の平和は難しい。もっと簡潔で簡単な方が善い、文章が長いなど様々な自分に対する言い訳もでるでしょうがそんな人には手を合わせるだけで、お参りするだけ良い、お線香をあげるだけ良いと、しないよりは好いと言うしかない。昔も今もその環境通りの宗派が当てはまる。
落ち着いて生活をしたい。腰を据えて法事などの物事に取り組みたいのに陽気に気が浮いて動きに転じてしまう明るい香水香など洋風の香りを使うのは好ましくはない(寛ぐのには好い)。仏様の供養に、仏様と心を通わせるのには静かに向き合って精神を整え不動になる環境を整えるには静かな和風の薫りが好ましい。
明るい香りで明るい部屋ならすぐに仏壇の前から気が浮き離れてしまい易い。いつまでも電気をつけていたり明るい番組では体が周りの明るいのに反応して沈んでいかないので眠りにも不向き(不眠症)。
写経もお経を読むのも静かに心を整える。和風の仏前は静かに気を整える場所といわれます。
仏様の食事といわれますが・・・?供養とは何でしょう?
供養とは供え養う。ご先祖様を扶養(助け養う。生活の世話をする。)する。ご自身、ご家族の日常の疲れた心と身体を仏様に接待したそのお下がりの潤いを頂き癒し養う(気力、体力、知力などを少しずつ作り上げる)。
供養とは仏さまがどうすれば喜ばれるのか?相手の身の上や心情を察する思いやりの心、誠心誠意他をもてなす真心を供えて養う・・・。
鯉幟は中が空洞で後ろに抜けているので空に上がっていますが、鯉は水流が抜けない逆流を昇って行き大変です。
鯛は正月が嫌いで七面鳥はクリスマスが嫌いだそうです・・・相手の心情や身の上を察する、
喜ぶものがいれば必ずどこかに悲しむものもいるそうです・・・。
国も個人も財政難になればどこからか集めないといけない。
個人は節約かアルバイトかそれとも・・・。国は消費税か放棄かそれとも・・・。
私達は出来る。しかし、お金はない。国に求めるより国に何が出来る?
yes We can. but, we do not have money. but, we can do. because・・・?
I want.I want to.何かして頂くと義務と責任を背負います。それを感じないと本当はいけない。
恵比寿様に商売繁盛を願うなら、まずは自分が初物の鯛を頂かず、恵比寿様に先に供えるべきである。
仏様に家内安全を願うなら、まずは自分の好きな線香でなく仏様の好物の甘茶香を、仏様に先に供えるべきである。全世界で甘茶が当たり前に売っているのを見かけませんが有るのが難しいので仏様に、又皆様に有り難うと喜ばれます。
六種供養とは物事を成し遂げる為、苦悩や迷いのない澄み切った境地になる実践で、@に水(布施行)。Aに塗香(持戒行)。Bに花(忍辱行)。Cに線香は手抜きしないで力を尽くした努力の性が宿るものです。(精進行【雑念を去って一心に仏道を修行すること。一つのことに心を打ち込んで励む事】)最近は昔と違って様々にする事もあり住宅環境も変わりました。しかし煙たいから長いからなどで様々な手抜きを進めると横着の性が宿る(堕落行)。皆唯我独尊。他社より自社を勧める。利便を進める悪魔の投げた餌か、天使の投げた甘い蜜。自分で選び掴んだ道は進む。
Dに飯食(禅定)。Eに灯明を点じる(智慧)以上六種の実践行は仏道修行、先祖供養には欠くべからざる必要な行いです。水と塗香と花と線香とご飯と蝋燭のおもてなし6種類の種を日々蒔いて善根功徳の人徳を積み重ねていくことで、御神仏、ご先祖様に対して偉大なものとして敬い礼を尽くすことが出来る。そして自ずと真理の深奥にめざめ仏智が深まり人格が磨かれ物事を成し遂げたり、悩み迷いのない澄み切った幸せの花が咲く。(汚れた周りに咲く一輪の蓮。天や綺麗、又は楽の内には咲かず、地や汚れ、又は苦の内に咲く一輪の尊く美しい花)
世の中が可笑しく感じるのはなぜでしょう。ほしい、ほしいと求めるのは餓鬼である。
こうしてあげたい、こうしたいと思い行うのが本当は良い。
何もしない人と神仏を大切にする人とでは眼の輝きが変わってきます。
自分の好物でなく、お客様の好物をもてなすことが大切です。
仏様の好物は華・香・灯だそうです。(花、線香、蝋燭)
その三つは自分の事は何も言わず自らを犠牲に他をもてなすものばかりです・・・。
ご先祖様の心は移り変わらず、おもてなしをすることは止まっている玉を打つゴルフより簡単です。ゴルフは息を吸ってスイングするのではなく、吐いてからスイングを始めるといいといわれます。
鼠や蛇などの動物が自分に利を授けもてなしてくれるなんて普通はありえない事が起こる夢のテーマパーク。映画などでは救世主が皆を救ってくれるなど現実にはありえない逃避の夢を与え、三蔵法師はこのままではいけない、火の車から降りなさいと因果応報の現実を教える。現金を振り込めばそれが増えるという夢の話。預けると倍になるという話し。フィクションなのに日常でも起こる夢を見て騙される人が増えている。動物は狐と狸が人を騙すという話が童話でありますが、現在は人が他の生命を管理し人を騙しています。空想の世界は死や不安の恐怖を和らげるかわりに、簡単に陽気に軽くする。
仏壇に向かうのは朝もいいけれど本当は周りが暗い方が好い。世の中の景気も体調も薫りも明るいより暗い方が自分を省みやすい。ローソクの炎も一番智慧を授けてくれる時。電気の付いた部屋ではなく、夜の電気を消している部屋での蝋燭の明かりこそ輝き明日を頑張る闘志を授けてくれる。
短いお線香、煙の少ないお線香が流行っているようですが相手には何か好い所はあるのでしょうか?、心に余裕があれば煙にも情緒があり豊かさがあるそうで、眼を開けばどこにでも教えがある。香をたいて香気の流れたときに、その香気の、あるのでもなく、ないのでもなく、行くのでもなく、来るのでもないさまを知って、さとりに入った人もある。心を乱せば醜い煩悩となり、おさめれば美しいさとりになるそうです。世の中が、普段が悪くなると明るい楽しい話や場所ばかりを求めるが、暗い話や嫌なことに聞く耳を持つ、陰気な場所や行いにも学ぶ事がある。楽しい世界に行けば気は晴れるが普段を辛くして、苦しい世界を見れば普段を明るくしてくれる。
煙が仏様に伝わるといわれ、善い香りが煙に乗って相手に気持ちを供えようとするもてなしの心を仏様は召し上がると言われます。ご先祖様と閻魔様は毎日見ていてご先祖様に功徳を回し向けできているのか、将来必ず行く場所を決定しているといわれます。
汚れには味がある。新品は無表情。片方だけ求めれば悩みを生む。仏壇が汚れるから煙の少ないお線香が良いという人も有りますが仏壇が古くなり煙で汚れてきたならそれは家族だけの特別な仏壇。新品の仏壇は皆同じだが、老いた年寄りの皺や表情のように衰えはしますが汚れた仏壇には貴方達家族が積み重ねた味がある。一生汚れのない仏壇を求めるなら何も接待しないで袋を被せておけば良い。汚れてない仏壇は見る人が見れば何も接待せず飾ってあるのか、高価な金仏壇が汚れてはまた洗いに金銭がかかると自分の事を考えて接待していると思う。汚れたなら拭けば良い。日を決めて定期的に拭けば汚れはしませんが、堕落して放っておくので汚れる。掃除を定期的にしなくても好いと思ってしまう煙が少ないお線香は楽ですが堕落してしまう。そうした人は仲間がいないと寂しいので人数を増やして自分を正当化しようとしてもう一歩堕落を勧め何もしなくてよいとその場は楽だと仲間を増やそうとする。長い期間で見ればその行為から広がり後に様々な事で苦労することになる。自分も汚れず今のままの若く綺麗にいたいのなら蝋人間になるのか、永久凍土の氷に閉じこもるしかない。
失礼のないように仏様への思いやり、仏様への真心のおもてなし。
毎日の事で大変ですが、ペットも家庭の食事もご先祖様のご飯も自分に出来る精一杯のおもてなし・・・。
毎日同じ食事で不満を語らないのは空腹で食べるのに困っている時の人間と、ペットとご先祖様だけ。ペットは語らないがご近所に違う餌を貰いに行っている場合がある。主人も奥様も家庭で得られない物を外に求める場合がある。
毎日積み重なっていく直接の原因があり、それに応じた大きな報いが必ずあるので大切なようです。
自分のことばかり考えたその行為の雫は大きな波となり毎日の生活に周りの環境に大きく広がって行きます・・・。テレビは大型化し、仏壇は小型化すると父、母の存在も大きく変化してきます。(テレビが中心になり、家庭を占める割合に享楽が大きくなる,、テレビを付けたまま食事をする家庭では家族の会話が少なくなる。)
利便性のみを望み、安逸だけを望んでいると何でもないことが苦になってくる。普通に歩いて帰っていた距離を1度タクシーに乗り楽を知ってしまえば歩くのが苦痛に成ってくる。
苦難の中では磨かれるが、安逸の中では墜落していく。パソコンも今では昔のあの遅い機械に苦痛を感じる。怠慢になると長い線香や煙、そしてお供えする事にも苦難を覚えるようになる。
もう簡単な事も不便に感じてあの頃へは戻れない・・・。
沢山の人が機械で安逸に溺れていくと人間の働く所が、自分の存在を見出せる場所がいつしか無くなってしまう。世の中では機械が全てしてくれるのは最初は珍しく喜ばれるが最後に残るのは優越感にも浸れる人からのエスコート、気遣いなどのおもてなし。自動のドアと人が付いた手動のドア。豊かな人は人との出会いに喜びを感じて人と人との繋がりを楽しむが、貧しい人は係わり合いを嫌う。安いコーヒー屋と高級なコーヒー屋では同じコーヒーでも店の色、金銭の渡し方、コーヒーの出し方、言葉使いまで違い、安価な店は人の手があまり係ず早い時間が流れ、高級な店は人が沢山係りゆっくりした時間が流れる。人が必要なのは高級な店だけになりかねない。それを求めているのも高級な人かもしれない・・・慌しく貧しい人が高級なその場所にいると周りの人々のゆっくりした時間を損ねてしまう。いつしか高級な人の相手をしていない人々は、機械がライバルになる。
朝30分早く起きて顔を洗って口を濯いで生花の水を変え、日本産のご飯と日本産の御線香を落ち着いて手を合わせ供えます。
お線香の薫りが嫌いという子供は普段から一緒にお供えしていない子供が多く、たまにするといつもしていない事ので嫌に感じる。(姪や甥も御婆さんの家の匂いと大人になった時お線香を懐かしく感じる)。時がくればお線香の香りは良くなり心が穏やかになって香りの良さに気付く。忍耐とは希望を持つ技術で子供にも身に付く。次男の家庭でもご先祖様はいるのだから家族一緒に日々の生活で一緒に神様か仏様におもてなしする場所が必要です。長男の家でも自分達の都合で二世帯住宅になり、結局親だけでもてなしている場合も多く、長男も次男の子供も結局教育を受けていないので次の世代では教えることは難しい。ご先祖様が代々大切に築いてきた思いやりと真心を培う家伝も途絶え始める。
世の中は我慢、耐え忍ぶ、奉仕の心も途絶え始める。昔の閉じた女性、今の解放された女性。
貧しい昔、食べるには困らない現在。なんでも揃ってひとりが楽な時代・・・。
貪り、相手を察しないもてなしはご先祖様に届かず全て火炎となって燃えてしまうそうです。
(日常の社会でも相手の為と行っても相手にとって好くなければ、上手くしないと伝わらない。その行為は火炎と成って燃え尽きる。)お経もテープを買ってきて流しているだけなら相手に伝わらず燃え尽きる。お金を出すだけの行いも。自分の時間と財力と体力と精神力と知力を犠牲に、花、線香、蝋燭のようにもてなすのが喜ばれます。相手を察する優しいものさしでのおもてなし。
聞いたり読んだりして理解して行う人。読む気、聞く気、行う気の無い最後の人には目に見える色が有効。
気の無い人には何を言っても無駄である。気が起きる機縁が必要。
そんな人は今世は気だけ救われ、来世で阿弥陀様に救ってもらうしかない・・・
誰でも相手が聞く耳をもとうとしないと説明も出来ない。仏教聖典も読まない、読めない、気が無い。
縁無き衆生は度し難い。(人のことばを聞こうとしない者は救いようがない)
悪人は、罪を知らず、それをやめようともせず、罪を知らされるのを嫌がる。
善人は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐにやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。
悪人の環境を整えないと全ての人に平和は来ない。 あの人さえいなければ・・・あいつがあんなふうでなければ・・・自分の好ましい状態でないときに思う(恋愛も)。
その人が何かのご縁で変わるか、自らが相手に自由を許す愛でしか互いの平和は続かない。
賢い人は自分の過ちを忠告されると反省して改めるが、愚かな者は自分の過ちを指摘されると改めるどころか、かえって過ちを重ねるものである。聞く耳は持たないが不満を持ち言葉の暴力、肉体の暴力で相手を攻撃する。愚かな者の怒りは口を開いて眼を閉じる。
周りにもいると思いますが、しかしその人は心の中は好い人です。自分達の幸せを願っています。
悪いのはその人は育った環境と現在の環境が悪いのです。その人は悪くありません、貴方に心が入っていないだけです。
周りが変える事が出来ない環境も・・・。人は良い事をしようと思っても過ちを起してしまいますが、知識として様々なことを覚えておけば、その場面がきた際選択する余裕が生まれる。良いことをしようと思うことが自分の心に潤いを与えてくれる。皆生まれた時は、泣く事と食べる事しかしない。それから様々な勉強をしたり、様々な失敗をやり直せないのは今までと今の環境が悪い。過ちを3度も繰り返すのは考え直そうと出来ない心と周りの環境が悪い。
求めている物が違うのを理解しないといけません。相手は現状維持で社会の批判や愚痴をいう友を求めているのかも知れませんが、その人たちが減らないと皆の平和は訪れない・・・。
愚痴や相手へ行う嫌味な言葉や態度などは周りの人も不愉快にさせます。
ご先祖様を大切に思う心の現われが礼儀となり社会秩序の基となる。
幸運の機会は努力するものに訪れ、怠けるものから去っていく。知ろうと思う心が大切で人の意見を聞く事は協調へ繋がる。
ご先祖様をもてなさない自分の安逸な行いは、忙しいから、危ないから、汚れるから、マンションだから、自分自身に対する言い訳です。相手にとって善いものはありませんが自分の心の中のことですから誰にとがめられることもなく、簡単に言い訳が通りますが、この時向上の芽を自ら摘んでしまっている事に気付かねばいけません。
毎日同じ食事で喜ぶのは食べられない人。仏様もペットも喜んでいるような気がしますが、戦場の兵士と同じでお腹が減っていてそれしかないからでしょう。食べるのに困っていない選択肢のある人に同じ事をすれば傲慢で錯覚に見える。
同じお線香ばかり焚いてしまう、自分の安逸ばかりを求めてしまうのは魔女が体に巣を作り心を虜にしているといわれます。巣の子が繁殖しない内にせめて月に一度は甘茶香で洗い清めた方が好いでしょう。幸運がないのは疫病神が取り付いているのかも知れない。
有罪の七悪。
1 挫折、憎悪に満ちた貧しいまなざしで、すべてに接する冷たい心は、自らの目を通して相手に伝わります。
2 いつも難しい顔をしていて人や物に接する行為。不平、不満が顔の表情にあらわれ周りが不愉快です。
3 相手にとって汚い言葉、思いやりのない態度で言葉を交わす行ないです。
4 自分の身体で奉仕をしないこと。自分のためにしか行いません。
5 自分の為の心をくばり、心底から共に恨み共に妬むことができ,他の痛みや苦しみを自らのものとして感じない。
6 たとえば自分が元気でも電車の中で喜んで席を奪う行為。また競争相手から地位を奪ってまだ足りないと悔やむ。
7 風や雨露をしのぐ所を奪うこと。限られた枠で自分の独占を拡大、相手に雨がかかるように傘を奪う強行の行為など。 (現在世の中ではネットや広告で価格は破壊し、財力ある大きな所以外は皆雨がかかっている場合も多い)
考えている人と考えてない人。参拝中も道端にある花に参拝中に出会う人に、小さな生物に気付く余裕があるマクロの世界。参拝することに一生懸命では周りはみえません。一行三昧で時間があっという間に過ぎて自分の気は救われているかもしれませんが向上はない。自分を省みるには昇る形の多い山に寺に神社に行くのではなく、深く沈む行為と空間が必要。書道、華道、茶道、瞑想、他の陰気な行い。陽気な行いや有頂天になる参拝では何も見えない・・・環境が整っていない。青い空で気を晴らすのではなく、自らを反省、考えるには濃厚な青い深海に、行かなくてはいけない!!!
行うこと参拝だけで満足している知る気のない羊は飼い主に従い夜には小屋に戻って五感の戸口をしめなければいけない。牛を飼う人は、秋のとり入れ時になると、放してある牛を集めて牛小屋に閉じ込める。これは牛が穀物を荒らして抗議を受けたり、または殺されたりすることを防ぐのである。
人もそのように、よくないことから起こる災いを見て、心を閉じ込め、悪い思いを破り捨てなければならない。貪りと瞋りと損なう心を砕いて、貪らず、瞋らず、損なわない心を育てなければならない。
良いものを見て求めないのは難しく、目をくり貫くのは愚かである。抑制する訓練をしなければならない
犯罪者が出所してまた刑務所に戻るのは環境が悪いのか、心ない形式だけで訓練をして二度と過ちを犯さない決意をしていない場合も多い。
牛を飼う人は、春になって野原の草が芽をふき始めると牛を放す。しかし、その牛の群れの行方を見守り、その居所に注意を怠らない。
人もまた、これと同じように、自分の心がどのように動いているか、その行方を見守り、行方を見失わないようにしなければならない。
宗教の自由。自分の環境、心で世界が変わる。
親鸞聖人は富裕層の形式だけで心ないのを見て形式だけではなく心だと感じて形式より精神を重んじるといったそうです。お金がないと形式を行うのも難しいのですが、お経ではある夜、お釈迦が祇園精舎へ入られる時、皆それぞれに百、あるいは万のあかりを供養しました。着のみ着のままの老婆も東奔西走して、ようやく一燈をともすことができました。
やがて大風が吹くと、あかりは消えていきましたが、信心が強く、志が深い老婆のあかりは消えなかったといわれるように、現在の簡単に結婚できる人は簡単に何度も離婚してしまいます。愚者の自覚を家庭にみほとけのひかりを。愚かにして愚かを知る事は愚かにして賢いと思うより勝っている。形式で物質を新たな場所などに求めるより、今あるものの中で精神性を深めよと言っている。同じ物と相手と行う結婚式でも。天は背中に(後ろ)輝く光を置いて天から地を見つめ、地は背中に(後ろ)に)暗い闇を
置いて地から天を見つめる。周りの人に聞いてみると貴方の背後の色が解かる。
貧乏神が取り付いてとりついているとは自分の背中の色を言っている。
因縁=因とは結果を生じさせる直接的な原因(普段の環境、行い)。縁とはそれを助ける外的な条件(周りの環境、状態)。
因縁生起=略して縁起。
縁起=あらゆる存在のもちつもたれつの関係を認めるから、お陰さまで、という報恩という奉仕も生まれてくる。縁によって生まれ縁によって滅びる。これだけは永遠不変の真理です。
環境が整えば人は豊かでいる事が出来る。周りが、相手が邪魔したり攻撃してこないのも有り難いのでお陰様で元気ですと相手に言います。
香りは餓鬼、徳人、阿修羅、仏で求める物が違うそうです・・・。
人は真中へ集まろうとするそうで、陰に落ちている人は上に昇れる祭りや明るい香り、色を求め、陽に昇っている人は落ち着いた場所、心を沈める香りや落ち着いた色を求める・・・。
自分の環境、心で自分の色の物を求める。
若い時にはお金を求めて、老いては健康を求める・・・。
目に見える物、耳に聞く事、鼻で嗅ぐ物、口で頂く物、肌で触れるものの最も強いものに惹かれ囚われる。
しかし人生の戦争で勝利するには最低三種類の【仏様のご馳走甘茶香】が必要である。
頑張る時の清浄甘茶香。休む時の慈悲甘茶香。静かに自分を省みる沈香甘茶香。
そしてご先祖様へお供えしてそのお下がりを頂く謙虚な心が必要です。
神社で道の真中を神様が通る為にあけておくように家族でも一番は神様と仏様(如来)の為に空けておきます。二番はご本尊様。三番はご先祖様。
神様のお札を重ねて祀る場合一番上は天照大御神様、二番は氏神様、三番は崇敬神社。
横に並べて祀る場合中央は天照大御神。右は氏神様。左は崇敬神社。
ご家庭でも仏様へ、神様へ神聖なお香を捧げお下がりの利益で空間と心体を浄化して清らかに静かにもてなし下さい。神様と仏様は喧嘩しないそうです。
社会では大切なご先祖様に供えるお線香を1コインで求めることが出来る外国の線香も流行っているそうですが、仏様の食事といわれるお線香。自分ばかり国産の米を頂くのでなく皆様の毎日の食事に出てくる日本の米と同じ国産のお線香を供えては如何ですか?。愛国心あるご先祖様は日本人の手で作ったを供えてあげようとするその気持ちを頂かれるといわれます。お線香の香りは部屋に残り結局ご自身が頂くので天に唾を吐くような行為になりかねません。
これから大変な時代が来ますから皆様節約に心がけて下さいというと、ご先祖様の仏壇、花、線香を節約してしまった宗教があり、流通は衰退した話もあるそうです。無い袖は振れませんが無くても大丈夫、それは堕落を誘う言葉のおもてなし。言葉は難しく、現在自分達が明日を食べる事に困ってなければ節約して好い物、悪い物の智慧を見つけましょう。
海外で生産した安価なお線香、外国産の肉や魚や魚介類ばかりでも財布の中身に重点を置いている人のその心は満たされますが餓鬼と同じでそればかりでは心が貧しくなり、心のゆとりが出来ないそうです。
ご自身の食事も毎食ファーストフード。健康も求めているのに知らない間に大切な間違いを犯してしまう!
香りは平安時代から五感を満たす、環境を整えるものとして高尚な趣味として使われ楽しまれたそうです。相手の好きな香りを焚いて喜んで頂けるかな?と来られるのを待っていたそうです。ご主人の帰りをお香を焚いて待っているような余裕のある生活と違い緩急もない五味も楽しめない同じ香りばかりの生活では心が窮屈になり病気になってしまいかねません。
安価な線香、自分の好きな香りばかりに貪るのも病気の元に成るのだそうです。病気になると入院費が高くつき安物買いの銭失いという結果になります。善い線香の原料は漢方薬やハーブを用いているのが多く心体に大きな良い影響を与えます。好物ばかり食べると病気になります。あんまり好きでない野菜も必要です。
もう横にしか成長しないのですが食べる事を我慢できないメタボリックも欲を規制できない病気です。
強制的に食事を減らすダイエットをしても心の鍛錬をしないと無理です。欲する物の何もない山で修行から始めても善いでしょう。今から始めれば今の生活の有り難さに気付くが忘れないよう努めなくてはいけない。
口からも頂き、鼻からも頂く。香りのない生活は鼻が要らないような生活だと思いませんか。なぜ鼻は付いているのでしょう?目と耳と鼻と口と心で最高の満足が得られるといいますが、普通の人は70%も目のみに囚われると言います。目で見える物だけに囚われた世界の狭い生活。
テレビを見ると悪いニュースや難しい話では陰気になり、面白い番組や簡単な話は陽気になります。
第一印象が記憶に残るのは人を苦しみに落とす計らいで、人間は何度も相手を好きか?嫌いか?判断したくない。自然に自分の利便から最初の印象を残す。しかしチベットのダライラマ法王がいうようにそれが後の失敗を生む事が多い。ビジネスのために相手に好く映る様に演じている俳優、又は女優。
香りは時空を超えるといわれますが、その場面に瞳に映る影響から妙香が脳裏に焼きつき時を超える。お茶席で沈香を聞けば周りの人や景色から上品な素晴らしい薫りと人は思い、お葬式の厳粛な沈んだ空間に使われた沈香の香りは陰の死のイメージが頭を占領する。そんなイメージをもつと毎日が暗くなるから普段には嫌な香りだと決めてしまう。本当は豊かで落ち着く優れた香りなのに目だけに囚われてはいけない。普段が陰気だといっても明るい場所や香りばかりを求めてもいけない、陽気に浮いた生活もいけれど、気を静めて腰を降ろした生活も良い。
目がなければ自分の世界は変わるのでしょう。落ち着いた生活をするのに、落ち着いた性格になるのに目に見える色と鼻で嗅ぐ香りはご自身とご家族の環境と精神を整えるのに本当は大きく役立ちます!
因縁を整えるのには書道、香道、華道を習っても良いでしょう。
勉強、読書、習字、パーティ、陽気と陰気の香りを使い分けると効果的!
食べる事も行事ももてなしも豊かな生活は無駄を沢山出来る余裕だそうです。
靴も簡単に履け、黄色や赤、ゴムの靴は安価で存在も軽く、中々手の届かない靴、黒い皮の手入れや手間のかかる靴は高級で存在も重い。スリッパのような利便な靴は安価で懐には安心ですが大切に扱おうとする心は中々入らない。安いと低価は違い低価格を安心と考えてはいけない。
家を3軒持ち住み分ければ大きく環境が変わりますが、同じ場所で生活する場合でも薫りを上手く使えば潤いの世界は無限に広がります。
仏様の食事といわれるお線香。毎日同じ線香なら仏様も飽きてしまうかもしれません・・・。
お線香を一箱開けたらそればかりなど豊かな生活にはなく、囚われ心も窮屈に閉鎖して貧しく本来の利益を失ってします。
毎日のお勤めに習慣で同じ花と線香と蝋燭とご飯と水をお供えするよりも、神様・仏様に好まれる人間になれば御利益が沢山あるそうですがご自身にとって特別な日、受験や他の晴れ舞台、ご先祖様の特別な日には仏様の好物といわれるお茶、甘茶でも喜ばれるでしょう。毎日仏様もご馳走三昧なら生活習慣病のメタボリックになってしまいかねません。
『ご自身もペットを飼っている家庭と同じで鼻がなれてしまい薫りが判らなくなり効果を失います』
社会でも同じもてなしばかりではあまり効果がでませんし、社会では仏様のようにゆっくり考える時間は与えてくれませんので、その瞬間に応じた判断をしなくてはいけない。
愚者の自覚を家庭にみほとけの光を。愚かにして愚かさを知るのは、愚かにして賢いと思うよりもまさっている。光は阿弥陀様に与えられ、そして個々に自らが光となり家庭の苦難になっている闇をお互いにもてなしで照らし、安楽(心身の苦痛や生活の苦労がなく、安らかであること)で安穏(変わったことがなく、穏やかなこと)な日々へ導かれる。
雨が降った日、曇りの日、晴れた日の天候。しんどい日、だるい日、元気な日の体調。
薫りを昇りと降りの春夏秋冬の季節に合わせて使うゆとりの生活は、五感鮮明になります。優雅なゆっくりと流れる瞬間・・・。
線香立てに立てると線香を取り出すには便利で楽だと思ってしまいますが、同じ線香ばかりになりますし線香の鮮度が落ちます。利便ばかり求めては簡略化され本来得るものも失ってしまう。線香立てに数種類のお線香を入れるとおみくじのようになってしまい、そんな生活は大変です。使う度に箱から取り出せばその日に合ったのを選ぶ事が出来ます。
自分で道を開くのです、そうすれば習慣でなくその行為に心が宿り有効になります。毎日の生活の形を正せば精神も変わります。ご自身の利便でなれてしまい相手の利便を考えられない結果、自分や家族の環境を整えるのも難しい生活。朝の始まりに形を整えなければ人は社会でも上手く回らない。
会を作ったりプライベートブランドを作るのは他社が生きていく為に、自分が利を出すためだけに安く販売して価格破壊が起こるのをするのを防ぐ。
仏壇屋、スーパー、問屋などが線香立てや同じ線香をお勧めしたり、自社のオリジナル線香を作るのは自分にとって利便の場合が多く、皆自分の利便を追求している。スーパーと仏壇屋の違いは今の世はどちらも安く売る傾向に(年中か一時期だったのは今は多様化している)あるので人が付いているか付いていないかの違いが大きい。お客は人が付いているのを好む人や、無人を好む人に分かれる。
日本には四季がありその巡りを是非、香りを共に楽しむようにご先祖様におもてなし下さい。
香りを楽しみ有効に活かす事は残された時間を有効に使うチャンスです。おもてなしに使う場合では毎日同じお香や香りは、来られるお客様には初々しい香りでもそこで働く人には一年中同じだと鼻が慣れてしまいあまり効果はありません。相手を察して相手を満足へ誘うおもてなし。薫りはもてなしの序章、きっかけとしてそこにご縁を作る事が出来ます。
発するのが陽気で、受けるのが陰気。もてなす側は春夏秋冬、天候で香りを変えると効果的。
応病与薬=病に応じた薬を与えると良いといわれる様に、枯れた畑には潤いの水を定期的にあげるようにご自身の心の天候、土壌となる体の春夏秋冬、浮き沈みなどに薫りを合わせて使うのが良いのです。
香りが駄目や苦手という人は心か体が弱っている場合があります。応じた対処が必要です。
環境を整えれば人は豊かでいる事ができますのでご家族にも過ごしやすいように環境を整えてあげて下さい・・・。頑張る家、休む家、保つ家の三軒の家を持つとそれぞれの環境が整い豊かでいる事が出来ますが難しい問題だと思います。しかし香りを使えば一つの同じ部屋でも大きく潤いの世界が無限に広がります。一つの香りに囚われない自由の世界。花は枯れるが囲まれず大自然になり囚われない自然の木の茂る世界。心の楽は楽しみ、心の安は安心。
環境とは人間関係、台所状態、落ち着けない、部屋の状態他。一緒に生活する家族、自分の世界なら良いですが世界平和には隣人への気配りも必要です。繋がりあっているのでその罪が罰となって巡り回って戻ってくる場合があります。皆が環境を落とし合う悪循環は貴方や相手の縁起で始まり環境が低下し、低下して曇ったその人が周りの人の環境を落とし、光を差しあげる太陽のような存在がいなければ1人が嫌と感じればその広がりは千にも万にも広がる。お互いに足を引っ張る関係でお陰様といえない関係になる。
仏様の好物といわれる甘茶には心に溜まった厄・災難を洗い流す意味があるそうです。
=お部屋の浄化に!悪いことをしてしまった懺悔に!有り難い事があった時、感謝に甘茶香・・・。
お礼参りがあるように、ご先祖様へ好物のお礼。
清浄甘茶香=日常の環境が適わない状態で最近良い事がない、嫌な事が多いと思うと心が曇ってきます。そんな時にその迷いの曇りを洗い清めて、あらゆる困難に立ち向かう勇気を与えてくれる希望の薫り/清浄甘茶香。良い事があった日のお礼や頑張る時にもお使い下さい・・・。
甘茶香で心を洗い流す懺悔は悔やむ事でなく明日への前進する土台です。
用途例=早朝から朝、冬から春、曇りの日、受験、新築、引越し、リセット、還暦の祝、成人式、命日、花祭り、大晦日、節分、厄年、盆、彼岸
、ヨガ、正念場、開眼法要、子供の安全を願う。
竹炭甘茶香=環境の変化で煙にも情緒があっていいのですが煙は困ってしまう。そんな貴方に生活の悩みから私達の心を救い出してくれる煙の見えない有り難いほのかな薫り/竹炭甘茶香。普段は煙の見えない竹炭甘茶香をご使用頂いてもご先祖様の大切な時には煙のでる甘茶香をお使い下さい・・・。
用途例=日常の線香、空間浄化。
慈悲甘茶香=疲れた時には甘い食べ物が良いといわれるように、 毎日の苦しい生活で疲労は蓄積されます。慈悲甘茶香は深く重い闇に覆われた涙に溺れいく心を、優しく甘く抱きしめ心の扉を開いて楽しみを与えてくれる
愛の薫り/慈悲甘茶香。心が疲れた時には、とびきりに心を包んでくれる爽やかで甘い香り!
用途例=冬、夜、雨の日、梅雨時、疲れた時、孤独な時、ダイエットしたい時。
柔和甘茶香=人生、晴れ舞台では様々に熱狂的な人と人の間柄で精神的、肉体的な苦痛を覚える事があり、同じく暑い場所でずっと生活するのも大変です。様々に五感に発せられたエネルギーを、外界から受ける影響を、クッションのような柔らかな心体へ誘う一筋の煙と自然の豊かな薫りを皮膚からも頂き、目と鼻と心の三感の打ちひしがれた心を癒してくれ、心と体が和み柔和な笑顔へそして平安に導いてくれる夢の薫り/柔和甘茶香
用途例=晴れの日、暑い日、昼、現状を保ちたい時。 ヒーリング。
沈香甘茶香=物事が上手くいっていると昇って快く晴れてきますが怠慢を生み、心の先端がささくれてきます。ささくれの苦を抜き去り浮上した心を静かに沈ませ優しく和ませてくれる天然シャム沈香の微妙な香りを聞きわける誠の薫り/沈香甘茶香。
用途例=昼から夕方、秋、快晴の日、勉強、書道、読書の時、ゆっくりする時、落ち着きたい時には沈香甘茶香。
晴れ宿り緑茶=青く冷たい雨が降りだし雨宿り。
そして太陽の日が差し始める瞬間。小鳥が鳴きだし、陽気へ誘います。
冬から春へ、青から緑へ、様々な色の花は生まれ咲いていきます。始まりの薫り/晴れ宿り緑茶
用途例=病み上がり、雨上がり、不調の時、物事を始める時。
般若香=雨が降った日、梅雨時期や良い事がない日常は心も曇ってきます。
そんなときには華やかな般若香を使えば部屋は曇りが晴れて明るくなり智慧が湧き目覚めるような環境が整います。
用途例=すっきりしたい、梅雨、雨、曇り、気分転換、明るくなりたい時。
侘び寂び=苦味、渋みのお線香。苦しい苦味を良く感じる厳しい豊かな世界は畳の部屋、又は本堂で1人孤独に静かにいる事が出来る環境が整います。陽気を失い陰気で精気を養います。一度古い木のように心体も枯れた薫りで陰を極め灰になり、そこから陽に転じて若葉を芽生えさせます。
用途例=瞑想、静かにいたい、座禅、自分を省みる、、大人しくする、孤独を感じたい。
薫りは感じ方も様々なのでご自信で考えて使うと良いそうです・・・
水は動きがないと腐ってしまう、行く雲のように、水の流れのように円滑でないと!世の中も動きがないと・・・。
破壊は寺が燃えた跡に復興するように、江戸の町が幾度と燃え再興、再開発を繰り返したように発展も生む。炎は繁栄の象徴。江戸は火事の再開で貯えた。建築土木の復興需要が経済を活性化、江戸の職人を中心とした庶民の生活が潤った。紀伊の木材屋も潤った。大津波、地震、台風で困る者とその困った者を満たして潤う者。
値段だけの価格破壊だけで足を引っ張りあう社会関係が進み、物が溢れ需要の増えない世の中で、企業が、個人が、国が潰れて被害を受けないようにするにはこの飽和状態から仕事をどのように増やすのでしょう?
日本も戦後の焼け野原から様々な需要があり高度経済成長した。ITという新しい分野に動きがあって潤った人もいますが、継続的に動きを作るのは難しい。
破壊と再生の動き、世の中は世界規模でそれを繰り返しているそうです。
今の世の中は物が壊れず破壊が起こった状態ですが企業の破壊が起こるのでしょうか?しかしいつまでも続かず陰極まれば陽に転じる。
過ちを言い訳で逃げていては失敗も成功の基にならない。言い訳が上手くなる程向上への道が閉ざされていくので反省して明日への土台にしたいものです。
丁稚奉公と亭主で心の豊かさ、時間のゆとりも違い、心の平和に成れた陽の鳩は、書道や香道、華道を習い静かに心を沈める。昔はお寺に鳩が居ました、お堂に・・・。平和の象徴と言われる鳩は誰に迷惑もかけずに平和に過ごしたそうです。お寺は学校みたいな所だったそうで鳩は暗い陰気な和の餌を食べ、他を迫害せずに糞をして平和に過ごしました。現在も心の平和な鳩が集まり色々な気持ちを落ち着かせる餌を食べ、変わりにお金を置いていくそうです・・・平和な鳩にはココロ豊かな先生と呼ばれる人も多いようです。
鳩から鳳凰に成るまでも陽といい、陽遁(ヨウトン)というそうです。
鳩は自分が救われた平和な人。他に恵みをもたらす鳳凰や龍は平和で他を救う人・・・鳩を鳳凰に変える甘茶香・・・。
落ちている人にそれ以上沈めると地獄になってしまうので、陽気な薫りや明るい空間にいて精神を保ち、まずは心体を癒す方がいいので気分で香りを変えて使うと効果的です・・・。
現在、日本の平和の鳩も、餌の取り合いで喧嘩しているのを見かけます。鳩は餌の取り合いだけ仲間と喧嘩をするそうです。
相手を救うには自分が救われていないと難しいのですが、自分達が生きていくには仕方がないのでしょうか?鳥居には、一年に一度は自分の幸せを願い様々な鳥が集まります・・・
迷える羊はどこへ行くのでしょう?飼い主が夜には羊を家に戻すように世話する人が必要です。
世界の平和は環境が整っていない人を救わないと難しい。環境が整わないと人は自分の幸せの為に他を侵す。食べるのに困っていたり、普段の生活が容易でなかったり、自分の環境が思うように進まない状況の人。求める物が得られない状態・・・。食べるために仕事をして、家族の為というが本当に家族の為だろうか?
今までの日本の線香は贅沢品で、高度経済成長(国、宗教のお金が庶民に廻る)の中、平安時代の貴族のようなゆとりのある豊かな人が使うのが多くありました。薫りを楽しむ行為はとても豊かで、江戸時代の庶民にはそんな余裕はありません。人の望みには衣、食、住があり中でも薫りを楽しむ行為は最も豊かな極致の営みです。庶民には名字もなく、戒名や、墓、仏壇をもつ余裕は無かったそうです。戒名は寺に大きく貢献した人に与えられ、今もご先祖様を守る寺院を支える大切な役目もあります。
南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われた気のする極楽浄土信仰が流行り、大丈夫と気を救うだけで今を生きる事だけで精一杯だったそうです。目に見えるものでは気だけ救う事が出来て、煙が出なくても大丈夫といえばその場は救われます。理由のない大丈夫なので多くの0型の方と同じで崩れる時にはもう本当に駄目な時なのでとことん崩れます。最後には手を合わすだけで良いというでしょう。
沈香はお茶席でも香席でも浮いた心を沈めてくれる落ち着ける環境の香り。閉寂質素で落ち着きがあり、畳の部屋にはわび、さびといわれる渋く無口で厳粛な深い和の陰気な空間が演出されます。目で見える部屋の環境を整えた後に落ち着ける環境にするのに香りは沈香を使い、派手な色は周りの人の目を捕らえ、香水の香りは周りの人を落ち着けない環境にしてしまうのでいけないといいます。(五感、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る)景色も、音も、薫りも、味も、温度もお茶席や香席は全て最良の落ち着ける環境にして整えてあります。
今の日本は世界的に立場が変わり洋風も流行り、格差社会も進んで沈んでいる人を救い上げる明るく軽い陽気な香りもあります・・・。
陰気を救い上げてくれる陽気な香りや金色の仏壇、黄色のパッケージは陰に落ちている人には希望の光に見えます。明るい香りも希望の香りに見える。
現在の時代は全て揃うお店でないと難しいようです。人気のある人はお金があるが時間が無く、人気のない人はお金が無いが時間はある社会だったのが、お金も無いけど時間の余裕もあまり無い社会。
お線香、蝋燭、仏壇、葬儀、墓石、霊園、寺、問屋他。
米は米やというのは難しく、何でも販売しないと難しいけれど高くても良いものを売っている米屋や酒屋は持続出来るようです。
値段を求める人と、値段でなく良いものを求めている人の二極化が進むようです・・・
余裕があれば古墳やピラミッド、お墓をご先祖様や子孫の為に建てれば好いのですが、生きている人がこの先どうしようと考えていて先行き不透明では亡くなった方をもてなすのも大切ですが無い袖は振れないというように葬式も何も行うのは環境が整わず難しい。
お香やお線香を使う事は重要で、その時間を持つことで心と体に余裕が生まれ生活が大きく変わります。薫りは環境を整えてくれる。畳の部屋や渋い、苦い薫りのする場所では塀寂質素になり、マンションや華やかな薫り、甘い陽気な薫りは緊張を解して(解は牛の角を刀で解体した?)心を開放へと向かわせてくれます。赤や黄色の明るい部屋で焚く慈悲甘茶香の甘い薫りは、疲れが宿った心と体のドアを開いてくれる幸せの鍵。
疲れという苦しみ悲しみを抜き去り、今まであった疲れのない楽しみと幸せを授かる環境が整う。
疲れた時には甘いものを食べると良いといいますが、余裕無くストレス等で食べ過ぎてメタボリック、肥満も多くダイエットも流行っています。甘いものを食べると身に付き又違う悩みが起こる。
お線香やお香を焚く心に余裕の無い人がメタボリックになっているような気がします。
慈悲甘茶香は身に付かず潤いを補充できるので悩みが減り喜びが増えます。
まず心と生活を整えるのにお線香とお香を焚く時間を持つことは有効です。
精神的にも肉体的にも良いので是非上手くご活用下さい。
香りの環境を整え、目で見える環境は赤や黄色が三割、ベージュや白が七割ぐらいの部屋。
お線香侘び寂びの閑寂質素な空間では陽気を失い、言葉に重みが備わります。子供を教育するのに叱るときには是非苦い薫りのするお線香侘び寂びで侘び寂びの空間を整え下さい。陽気な薫りがしたり陽気な部屋で落ち着いて勉強しなさいといっても環境が悪く無理が多い。同じ空間でも香りが変わるだけで雰囲気が変わり言葉の一言一言に重みが増したり受ける影響も様々に変わります。
おみやげを購入する時・・・好まれ喜ばれる物?相手を察し笑顔を思い浮かべると嬉しい(慈悲)。香道、お先に・華道・茶道、京都祇園の一見さんお断り。相手を知って応える最高のおもてなし(智慧)。
お歳暮も、お中元も、お土産も、お線香も、墓参りも毎年自分の利便で同じのをする人も多いですがしないよりはするだけましだそうです。しかし本来は相手に応じたものを考える、思いやりと真心が日本の伝統文化である癒しの「おもてなし」が必要です。頂いた相手のお返しまで、財布の中身まで察すると大変ですが、相手は渡す人ほどは考えていないといいますので今後の末永いお付き合いへのご挨拶として行っても好いそうです。
ありがとうと言葉のお返しがあり、物のお返しがあれば相手に言葉で返したほうが好い。
相手の身上を察する「思いやり」と誠心誠意、他をもてなす「真心」。
最高の布施は施した相手と施した物を共に忘れること。もてなしが当たり前に出来ていること。
凄いね、有り難うといわれても普通なので何のお礼を言われているのか解からない。
失礼のないように成仏されるご先祖様へ仏様の好物といわれる甘茶の線香「甘茶香」のおもてなし。
有り難いお線香で、それが好物ならなおさら有り難い。
供え養う。苦楽中道(苦と楽の間に道がある)とおなじで、陰陽道でも、心豊かな人、心貧しい人でも人は真ん中に集まろうとするそうです・・・。
和風は落ち着き陰気に、洋風は浮いて陽気になります。自然の木を使えば高級な感じになりますが、洋風の高価な物は手に入りにくく、簡単で手軽な洋風の物には浮いた安価な感じを与えてしまう。
色も香りも高級にするなら重厚感のある少し暗いめで、一般の人を集めようと思えば薄く明るくすれば良い。おいで安というように(おいで安いよ?)、安い安価に見える黄色や赤の明るい発する色の店は闇に射した光の色で太陽と間違えて簡単に入り易く、高級な店は光が少なく何事も形式や人が係り難色なのが普通。
若い人と年寄り、陰の人と陽の人、豊かな人と貧しい人、同じ物を強制しているのではないそうです・・・。
若い人は元気を抑えるために黒い服を着る人もいるといいます・・・。ストレスの排除にエネルギーの発散に世界の楽しい祭りは昇らせて普段を降ろす。
朝に線香を供えていないと罰が当たる、悪いことが起こりそうな気がして心が曇ります。
普段していることをしていないと不安になるものです・・・。
きちんと供えて来ていると、自分は救われ心配なく晴れ晴れと道の真ん中をご先祖様に守ってもらいながら歩けるそうです・・・。人生にも起承転結、春夏秋冬があるといいますが、冬が近づいて来ると先の事が不安になってきて巡礼や、観音霊場を回り、寺の参拝を始める事がありますが、なにかしているとなにもしていないという恐怖、不安から「こうしているから大丈夫」と自分で納得できて、自分は救われるそうです。
心が病んでいれば何度参っても不安で救われません。
お葬式で意味の解からない経を何度聞くよりも、人生の早い段階でお寺に参拝、又は月参りでお忙しい住職に時間を頂き有り難いお話で経の本当の意味に出合えてそれを人生で活かせる人は幸運で環境が良かった人。葬式の法話だけでは何も解からない不安な状態にあるので各自読書をして学ぶのが好ましい。沢山社寺仏閣へ参ってご朱印を集めて自分の達成感を満たすよりもそこで合う人々との繋がりや建物、様々なもてなしを感じるのが善いそうです。
神社で我先にと一番福になった人と途中転んで大変だった人、そしてその人を気遣う人。貴方が神様ならどの人にご利益を与えるのでしょう?
お賽銭を入れる時、どうされていますか?勢い良く仏さま向けて届けとばかりに投げている?
自分の願い以外は何も考えていない?感謝の心で「いつもありがとう」とそっと優しく入れる?
自分が仏様だったらどう思うでしょう?自分の事だけでなく、「相手の事を考える練習」みたいです。
仏さまに投げ付けないように網がしてあるでしょう!前に沢山人がいるのに我先に貪って前の人の頭に投げつけてはいませんか?お年寄りに迷惑をかけていませんか?自分の事しか考えないで我先に賽銭をいれる事が善いのではありません。
そんな人も自分の気は救われますが、智者は獣には近づかないように水と油が交わらないように好い人と出合っても交わらず集まっても来ない。
「遠く後ろからそっと手を合わせましょう。」遠くても仏様は見ていてその謙虚な姿勢に仏様はにっこり微笑むそうです。
そのような人にこそ仏様や観音様などは見ていて、願いを叶え助けてあげようとするそうです。
心の姿勢を正さないと気だけしか救われません。
天に唾を吐けば唾が戻って来ます。お賽銭はアルミニウムや銅も良いですが天にお金を投げればそのお金が落ちてきます。様々な硬貨も善いですし神聖な霊木で作られたお札は社寺仏閣でも貴重で喜ばれます。自分が与えた恵みしか自分には戻らないといわれ笑顔でもてなせば笑顔が返って来て、優しい言葉でもてなせば優しい言葉がいつか返って来るそうです。相手を察して有り難いと思われる事をもてなせば相手から何か返ってきます。アルミニウムでいつも神様と仏様に悪いと後ろめたい思いは心を曇らせます。落ちているゴミに気付いて通り過ぎても・・・。心を開いて行えば快晴になります。寒い雪の降る夜にお地蔵様を察して笠をもてなすとお地蔵様から自分のほしいものが届いたというのは相手に先に与えると良いということです。鯉に餌を与えるのは高いところからだけれど与える人の気持ちが解かる。鯉に餌の利を与えるのは喜びですが自らが相手より低い位置ではこの世では相手に利を中々与えられはしない。
悪い行いや暗い心、黒や陰は光を吸収してしんどいそうです・・・。
京都のある橋の下では黒いカラスが水辺の上の鉄工にたっていて太陽光を防いでいました。
ずっとたっているのはとても大変そうでした・・・。
太陽を防いで橋の下で生活をしている人も、テントで暮らす人も大変そうです・・・
晴れ舞台の一線で活躍する人も、皆から受ける陽が強すぎてずっとそこにいるのは大変です・・・
川原の木陰では平和そうに鳩が腰を下ろして涼んでいました。
蛇はずっと地について生活しますので黒い陰によく例えられます。一生地に這って生活することを余儀なくされ、手も足も無く自分の餌を捕る以外は他に利をもたらす事は難しい。(旧約聖書『創世紀』によると蛇はサタンの使いと言われイブに近づき、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。イブはその実を食べた後、アダムにもそれを勧め、二人は目が開けて自分達が裸であることに気づき、イチジクの葉で腰を覆ったという。蛇は腹這いの生物とされ、女は妊娠の苦痛が増し、また、地(アダマ)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡した)
悪人も犯罪者も戦争も環境が悪い。自分が救われるために、生きていく為に相手を侵してしまう。
皆が平和になるには環境の悪い人を少なくしないと難しいようです。
周りから危害を受けないで、失敗してもやり直しが何度か効く、安心して学ぶ事が出来る環境。言葉、目、他の危害。
龍は普段は水中にいると想像され天へ昇って陽となり雨(法)を降らせて他を利するのだそうです。
地の蛇と天に昇った龍は赤と緑の関係で正反対の振子式。自利と他利、地と天、陰と陽。
龍には手も足もあります・・・手と足は他を利するためにあるそうです。
人間は人と人の間柄と書きますが網の目のようにそれぞれ他の網が成り立つために役立っているそうで、本当は人々が網から落ちないように縦横無尽に網を巡らせ支えあうのだそうです。
伝教大使が一途を照らすといわれたように太陽の光の当たらない闇の所では皆が照らしあえば闇は無くなる。相手に陰を与える人も環境が悪い。
訪問着と普段着。各宗派の仏像、宗派の仏壇。様々なお線香。言葉使い、作法、それはなぜ良いのか?
なぜこの仏壇なのか・・・なぜこの形が仏様にとって善いのか?なんの為にするのでしょう?
解からないけどこれが一般的に良いと薦め、話も進むので購入する場合も多いでしょう・・・
自分の好き嫌いでなく相手に対する礼儀だそうです・・・。善いものは相手に、周りに潤いを与えます。
自分の行為が相手に影響を与え優しい言葉使いも綺麗な文字も相手をもてなします。
マンションの雰囲気にあった小型の仏壇がありますが、あんまり洋風な奇抜な色や形をしていてはその前では気を静めご先祖様を向き合い自分を見つめる場所なのに心が浮いて明るく軽い色は開放的になってしまい効果を失う。そしていつか心が離れる。人生が上手く進んでいるときは善いが悪くなった時に落ちるのは早くなる。
神様や仏様をもてなさない家庭は愛情が生まれにくい。家族で一緒に行う事で和も深まり何かに守られているような安心も生まれる。神仏を拝めば様々な時、誰かに見られていてこれは神様か仏様が私を試している?それともこれは悪魔が誘っている?と思えるようになったり、誰かに守ってもらっているような気がする(同行二人)頼もしい拠り所が生まれる。
表向きに悪いから・・・物事は皆がしているのでする場合が多くあり(同一性の法則)、なにも考えないでもどうすれば良いとだけ形式が書いてありますが、形式や習慣ではなくこの行為にどんな意味があるのか理解をして今後に活かす事、智慧(挨拶を教えられた通り習慣でするのは羊。相手と縁が出来た際黙っていては不振に思われる敵とみなされると自分で判断し挨拶をするのは智慧)が本当は大切だそうです・・・(般若派羅蜜)
(智慧=背後に存在する大きな繋がりの真理を見抜く。智恵=物事を損得で考える)
宇宙人も敵か見方か解からない時、未知の世界は恐怖の闇の世界。理解すれば智慧が闇を切り開く。学び知って皆さんにも伝えてあげて下さい。その功徳が周り巡って自分の環境も好くなるのでしょう。
父母がご先祖様にお線香を供えご先祖様を敬う姿は、知らない間に子供達が先人や目上の人を大切に敬う心が生まれ、家族の秩序、親の威厳も自然と保たれ一家の繁栄、家内の平和を保つ意味もあるそうです。子供を座らせ社会で共に教える事が出来ない事を教える場所です。
命日は仏様の誕生日、自分の誕生日だけ祝うのでなく、仏様の好物『甘茶香』の線香でもてなす事は、見ている子供が、好き嫌い言わず親が自分のためでなくご先祖様の為に供える姿を見て自分中心ではなく己を忘れて他を利する慈悲の心、相手が喜ぶならやってあげようと相手を思いやりと真心、謙虚な心も生まれるようです。
ご先祖様があって今があるという事を理解すれば生まれてこられた事、全てに感謝の心が生まれます。
お線香は、何かしてあげたい焚く人の心を満たしてくれると同時に、明日への希望、お線香をご先祖様に持て成す心と香りは心に潤いを与えてくれます。
神様や仏様を大切にする家庭には、おのずと様々な事から守られて結果幸せが訪れるそうです。
子供などが嫌がっても自分1人で仏様の管理はしないで、一緒に座って家族揃って接待を行うようにしなければ家族の平和は訪れはしない。
共同生活なので嫌がる事を強制すると大変ですが、子供が親が嫌がる事を相手の為に辞めてくれるだろうか?ただの甘やかしているだけではないでしょうか?現在、環境の悪い子供はあいての為にという心が欠けている。自分の痛みは解かっても人の痛みは他所の火事。友を愛したり家族を愛すのは普通ですが、、最初思いやりで敵にも家族がいるのだと相手の痛みが解かり殺傷できなかった戦国武将直江兼続は愛を掲げた人。自分達を救うために相手を十字架に架けてしまう。次男の家庭でもご先祖様はいるのだから家族一緒に敬い崇拝して思いやりを育む場所が必要。目に見える解かりやすいものが善い。神様でも善い。神棚か仏壇を祀って一番は神様、仏様に供えてそのお下がりを頂くようにしておかなければ家族の平和は難しい。そして繋がりあう世界の平和も・・・。今の世の中で誰かに見られている意識が無いのはご家族で何も祀っていなくて一年に一度お参りするだけの心ない習慣だけの人が、家庭が多いからなのかもしれない。何も知らない、知らぬが仏という人がいるのでしょう。年齢を重ねてからだと我が出来て修正が効きにくいので若い内から家庭で培い代々思いやりと真心を育てる方法を家伝する必要がある。でなければ原因を作った貴方の行いの報いで応じた思いやりと真心のない結果がご家族から自分に帰ってくる。
家族を愛して他人を愛して国を愛して敵も愛する。敵の都合も配慮して好い最善の方向へ導く。国や王では無く民を主をする人々にとっては主を盛り上げるために友愛(兄弟間の情愛。また、友人・隣人に対する親愛の情)は他国の友を指す。民は主であり友では無い。
香りを上手く使えば妙薬に、好き嫌い、自分だけ、ご先祖さまだけを大切にに貪るのも地獄への『餓鬼の道』 。
お線香を焚いて仏様が喜ばれるように仏様を精一杯に持て成すのは極楽への『人の道』。
諸仏諸菩薩を供養しひいてはご先祖様の所まで届きますように・・・。
相手の身の上や心情を考えた思いやりと真心の他をもてなす『おもてなし』は日本の世界に誇ることの出来る立派な生活の作法、日本の伝統文化です。人は満腹では墜落し、空腹では磨かれる。
「真心」は。誠心誠意、他をもてなす心。
「思いやり」とは人の身の上や心情について察する気持ち。
仏様に我はなく、好きも嫌いも自分の事は一切何も言いません。
様々な相手を思い、相手の喜びを共に喜び、悲しみを共に悲しみ、相手中心の見返りを期待しない慈悲の心なので、頑張っても悩み苦しまない。自分のことは蝋燭、線香、花のように何もいわず何も考えず無で有り空である。自分はいない。
仏様は何もいわず石のように全てを受け止めます。戦争中やどうしようも無くなった人は仏様のように反論せず聞いてくれるだけの人がほしいそうです。
そうですね。はい。YES、YES、YES。へー。ほー。はるほど。相槌も要らない。
要るとすれば頑張ったんだね、大変だったねと過去を、自分の存在を認めてくれる言葉。
戦乱中に活躍したイエスキリストも聞き上手だったのでしょうか?手をかざせば死人が甦ったといわれるぐらい凄かったそうです。
貧しい人には喜ばれ、権力者でもそうですねとYESを何度もいわれれば相手は優越感で喜びます。相手のお話には【はい】という言葉から入るのが好いでしょう。
人々は手も足も縛られた自由の効かないキリストのように束縛の十字架を見れば哀れみ、悲しみに浸ります。
今人間は昔に比べると両手足は大の字のようにある程度体は自由です。
五山の大文字のように亡くなってから自由になれる人もいます。
お家でも家の真中で大文字で寝るという行為は束縛がなく自由です。
ですが人は何かの不自由な束縛の十字架に架けられている。
十字架は犯罪者と同じように両手足を縛られ自由が利かない状態です。
亡くなると星になるといわれ十字架も燃えると大文字のように自然に戻り☆になります。
十字軍も自分達にとって何かを束縛された自由の利かない状態だったので、自分達の自由と利を求め右手を掲げて立ち上がったのでしょう!移民する人も革命も自分達の環境が悪い時に起す。
このままでは生きていけない空腹の人々は動く。
亡くなって星になった人々。人を表す亡くなった象徴☆は大文字と同じで自然に戻って自由です。
結婚をすると自分の出来る自由は必ず少なくなる。
結婚式に束縛の十字架に『いついかなる時も耐え忍び、二人で助け合い中睦まじく仲良く暮らします』と誓います。互いを束縛の十字架に架ける行為なのに言葉だけで意味も解からず形式だけの人も多い。洞察力があり結婚式の十字架にそんな思いを抱く人は少ないでしょう。
知らなかったでは閻魔大王にも裁判官にも許されはしない。
形式を出来ない生活も大変ですが、孫悟空の頭のリングと同じように神から見て悪いことをした時に結婚指輪が締まれば善いのでしょうか?人間には罪に罰の規制がないといけないのでしょうか。
演じる事が苦痛になったり孔雀のように翼を広げるのが面倒になれば、束縛に耐えれなくなれば離婚し十字架に懺悔して別れを告げ自由になります。孔雀のように羽はいつまでも広げてはいられない。
自分を良くみせようとすると嘘や言い訳が多くなる。一番よい状態の翼を広げた美しい姿だけを見せてはいられず、翼を閉じた姿を見る結婚後に冷たくなって当たり前。一番良い状態で出会った美人は飽きるが、好みではない最初から高まっていない人には慣れるというように、美人も自分にとっては出逢った頃の新鮮な一番良い状態ではなくなりその頃に比べると落ちたように思う。熱したものは温めていないと冷めるが、元から冷めているのは冷めているのに慣れてくる。
葉は天に向かい、松は季節によって周りが変わっても緑の色を変えたりせずいつも平等である。陰と陽。柔と剛。女と男。夫婦などそれぞれの個性はそのままで相手の個性を認めて一緒の小鉢にいてくれるのが平和です。相手が季節のように変わっても相手を敬うことが大切で竹の上下の節のように硬く、お互いを支えながらも自分の領域をきちんともって相手本来の姿を認めてこそ、それぞれの個性が引き立って円満に近づきます。
現在は平和で金銭面でも豊かで、相手がいなくても自分で生きていけるなら耐える事は放棄する場合もあります。神の前は懺悔する場所なので離婚すれば神の前で反省し土台にすると好いのですが判子を押すだけの人もある。形を求めて形を捨てる。
松のように周りの景色や心が変わろうと、貧しくなろうとも豊かであろうと、辛かろうと楽だろうと、上手くいこうがいくまいが初心忘れず初々しい癒しの緑を保てるだろうか?
従業員は時間を束縛され、軍隊でも星が沢山付けば行動と考えの自由も多くなりますが、世の中では束縛され自由のきかない人も十字架の前でお祈りする時だけは誰からも束縛のない時間を持つことが出来るようです。貧しい人ほど様々な十字架に架けられている。神の前でお祈りする時だけは誰にも束縛されず自由である。低所得者こそ束縛の十字架に多く架けられている。
大きな寄付をする人は高所得者が多く、十字架の前で祈る人は低所得者が多い。
選択肢の少ない低所得者は我慢と忍耐を強いられる場合も多く、心を日々鍛錬しなければいけない。
雑草のように咲きはしないが踏まれても生きる生命力。花は枯れるが雑草は茂る。咲くものは枯れるが咲かないものは長い。
苦労からは学ぶことが多く、安逸からは失うものが多い。
失敗しても学びやり直せる人生は環境が良い。
形式だけで意味も解からず気だけ救われる心ない人が多いのはすべて環境が悪い。
生まれた時には清らかだった悪人も、周りの環境、人々などで汚れてしまう。
気を救うのは大切で昔から続く伝統。薬が足らない時、薬ではない物を渡しても病気が治ったというのは有名なお話。
環境の貧しい人に自分の主張を推しつけてはいけません。相槌だけを相手は求めている場合があります。
自由の女神は行動と考えの自由があるそうですが、人々は必ず何かの十字架に架けられ相手を十字架から降ろすのでなく自分達が不便や悪条件の十字架から降りようと相手を十字架に架け戦争は起こる。
伝教大師は、『己を忘れて他を利するのは慈悲の極みなり』と言い残されました。
自分の好き嫌いでなく仏様の好物を持て成すのは我欲を抑えなければできません。
そして我欲を抑えて、自分の好き嫌いでなく仏さまや沢山の人々に喜んでもらう相手の事を考えた思いやりのもてなしが慈悲の極みで、「心を清らかにする最高の行為とされ、清らかな「極楽」に往生できる心を育てる」そうです。
お線香、仏様のご馳走® 清浄甘茶香(特大箱180g約540本入)
現在の人々は心の極楽を得る行為ではなく、自分にとって都合のいいように自分が凄く楽なように物事を簡略化します・・・。
行うには時間とお金と労力が必要なので環境が整っていなければ難しいのですが、その行為は知らぬ間に様々なことから救われていたのを放棄してしまうので、人生の歯車が違う方向に回りだします。
親の行為で救われていた自分が今は救う番になったのです・・・。観音様の立場になったのに何も解からず飼い主に従う羊の様にいてはいつまでも神様や仏様や皆様のもてなしで救われる立場で他を観音様の様に手の平の上では救えない。もちろん何もしない人は天上界にも菩薩界にもいないで人間界以下にいる(孫悟空が指に文字を書いた話もそういう事を言っている?孫悟空は自分の幸を求めた)
教育する場所なのに子供が嫌がるので・・・それは救う行為なのでしょうか?子供は凄く楽になりますが心の極楽になるのでしょうか?子供が衣服に線香の薫りが付くのを嫌がる。煙で家が汚れる。
様々な行事や二世帯住宅・・・地球が汚れるのは?
自分にとってはこんな利便があるが相手にとってはどんな利便があるのでしょう?失うものと得るもの?
利便に慣れてしまえば簡単な事も苦に感じてしまう。
昔神風特攻隊(飛行機には行きの燃料しか入ってなく相手に衝突することが目的)に乗った乗組員は最後の夜に家族に手紙を書いたそうです!お元気ですか?私は感無量で喜びが絶えないと!お国の役にたてて幸せだと・・・。今の人が聞くと書かされたのかな?と思うかも知れませんが、思いやりが備わっていれば違うようです。
辛い悲しい死にたくない。帰りたい。手紙にありのままの心を写すとどうでしょう?家族は一生それを背負って生きていかなければいけません。
嘘も方便といいますが、親は親ばかといわれるように子供が望むなら子供がお嫁さんの為に二世帯住宅で良いか聞くと?親は思っていなくてもいいよと言います。それを親が良いと言ったので構わないと思うのは如何でしょうか?お嫁さんが中心なのか自分なのか親なのかでまた違いますが、昔は好き嫌い関係なしに家系を守る為に嫁いだ人もいるそうです・・・。小さな家族の枠があり親類や友があり最低限は大切にしていないと安心できる場所が無くなる。まだ新婚だから別居してまた時間が経てば一緒に暮らすと誓う。片親が死んだなら一緒に暮らすという人もいるでしょうが、子供の面倒を見るのがやっと済み離れて、これからは自分の時間だとおもっている人は果たして一緒に暮らせるだろうか?昔は共働きの場合、お婆さんが子供の面倒を見ていたりしたそうですが。
子供のいない家庭ではその利便に慣れてはたして一緒に暮らして我慢出来るだろうか?
今の人は自分の利便を求めるが、それは環境が平和だから。お金がない環境なら親と暮らす人もいるでしょう。
愛する人といるのは喜び。愛するものと別れる、恨み憎むものとあわなければいけない、周りから形ある求めるものが手に入らないのは苦しみ。
親が子に苦労を見せて教育していないと、孫や子供も相手の事を考えられず自分中心の子はその報いで自分も年老いた日には老人ホームや寂しい毎日です。それで幸せならよいのですが、人は生まれ老いて病になり死にます。早く行く人、遅く行く人。一日24時間あるのが平等で、自分が救われて人生を有意義に使うのが仏教の目的ともいわれます。だんだんと老いていき人はいつか死ぬというのを見せてあげるのが親の役目です。それを見ていないで歳をとってからいきなり知らされても困ります・・・。世の中にはこれからどのように生きていこうとする者と、これから今後どのように過ごそうとする者がいるそうです。
(死ぬまでに三人の天使に会います。一人は腰を曲げて歩く天使、病の天使、死ぬ天使)
あなたもそうなると教えてくれる天使です。
テレビでは沢山の人が自らの身をもって悪いことをするとこうなると教えてくれる天使もいます・・・。
亡くなった時、閻魔様がお前は三人の天使に会わなかったか?と尋ねるそうです。
いつか死ぬという事を教え早く善行を積みなさいと教える天使に逢ってからの貴方の行いはこうでしたと人間の大好きな自分の映像を見せて頂きそして貴方の行き先を告げるといわれます。
働き蟻、怠け者蟻。皆それぞれに役目があるそうで、怠け者蟻を全て排除しても必ず一割は新しく現われるそうです。怠け者蟻は今ある餌が無くなる前に新しい餌を見つける役目があるそうで、地球上の生物は蟻も蜂も人間も全て同じなのでしょうか?接客業は皆が休みの時に働く。働き蟻のように真面目で一本道を企業にお客様に利益運んで仕事が終わっても寄り道せず教科書のように働き、独身の人もいる。
思い悩むなら行ってみると、行動の中から道が開ける場合もあります。
道を外れる者は道無き道を行く開拓者?新しい発見も生みます。
女王蜂は誰なのか?生物の存続??子孫繁栄の為には???地球の為には????
極楽それは極みの楽な所。悪人でも行くことの出来る極楽。善人は善いことをしているから善い方向に向かって心も潤っているので駄目になる、地獄に落ちる恐怖からも「自分で救われています」。悪人は悪いことをして後ろめたい、心が病んでいるので自分では救われませんが、罪深い悪人はあなたでも大丈夫と言えば「相手に救われます」。(悪いことをしてもしたと思っていない人は救われています)
亡くなるとこの世の悩み苦しみから誰でも救われ極みの楽だが、そんな人は極楽では阿弥陀様に今度は人を救うお勉強をさせてもらうそうです。極楽や天国、神様は地球を生み出した自然の力の象徴。亡くなった方に肉体はないので魂が千の風になって修行するそうです。それを解かりやすく生身の人の姿で例えている?輪廻で必ず次も人間になれるなら今はそんなに尊く感じませんが、魂でなく燃えて塵となり千の風に戻った後、天地の摩擦から始まり次はいつ人間に生まれて来られるか、そしてまたこのように考えている時間が有るのかを考えたなら、今この瞬間があり自らの身体を動かせているのがとても有り難くなります。仏教では肉体はなく、キリスト教では最後の晩餐のあと全ての人が若い肉体で甦り、善人と悪人を分け永遠の命を授かるか、永遠の死を与えられるといわれます。
キリスト教は土葬で自然の循環へ戻します。その方が燃やして大気から始まるより肉体を持つのが早いからでしょうか?虫に食べられたり。鳥に食べさせる時代もあったようです。
骨はハクといい、魂はコンといいます。お墓に神聖なお酒を注いだり、煙の出る善いお線香を供える事は、地を清めて煙を上げて魂を呼ぶ。煙は天上に昇り雲に届いて魂を呼び、墓の骨と空の魂をくっ付けるといわれます。魂は上空へ昇り、云の上に雨が付き、ご先祖様は雨を降らし他に恵みを与える雲になったと考えていた時代もあったようです。ご先祖様の魂の抜け殻ともいわれる骨が眠る墓をご家族で一緒に思いやりと真心で供養すれば肉親の霊魂、魂が喜ばれるといわれます。骨以外に残すにはミイラ化、凍結か、鞄になるしかない。(昔は頭の骨だけ祀り、頭に被って踊ったそうでそれが異になったといわれます。ナスカ地方でも地上絵で鳥やシャチになる儀式をして戦利品である敵の骸骨をネックレスに吊るし火で煙を上げて踊ったといわれます)。
天人地。天の雲から雨が降りそして大地に流れ地が潤いそして地から人は恵みを頂く。
雲と水は行雲流水といわれ何にも囚われなく流れる。そして最後に天からの恵み雨は海へ流れ雲に戻る。水も人も容器に入ると腐る。囚われなく流れていけば最後は赤子として生まれた頃のように綺麗に無邪気になって天に帰る。この世の何かに囚われた人がそこで囲まれ流れず天に帰れなくさ迷うのか?
様々な道を流れていく・・・・人の進化も食べられない人が進化した?どうにかしないといけない。
巫女や預言者は神と通じる聖(高徳の僧、その道で知識や・技量が特に優れている人みたいな人)。人間でいえば側近。聖といわれる人は、仏の使いといわれる菩薩と同じように文字の如く主導者の王に聖は口と耳で会話できる。一般の人には出来ない。
花祭りに注ぐ甘茶は、仏になられたお釈迦様・ご先祖様の好物です。
お線香の『甘茶香』は仏様の好物です。
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仏様の国の人々は仏の世界の中心須弥山から取れる苦悩の去る不老長寿(万病の霊薬)の甘露を飲みます。
その甘露の代わりに花祭り(お釈迦様の誕生日)に注いで誕生を祝うのが『甘茶』です。
生きている間、人間はあらゆる煩悩に悩まされます。花祭りに注ぐ甘茶は、自分の煩悩欲と厄災難を洗い流すと共に、心身を癒し長寿を保ち心を洗い流す意味があるそうです。甘茶を飲ませて頂くのは体内も清めるといわれます。神社では水でお清めをして参拝します。
亡くなられ、六道輪廻の輪から抜け出す事が出来て仏の世界の住人となられたご先祖様はこの世の好き嫌い良し悪しの執着・煩悩から解き放たれ空のような心で悟りを楽しまれ過ごされているそうです。
やっと仏さまに成れたのに未練が残る供え物もその人のものさしでのおもてなしのその気持ちは召し上がるそうです。
人は好きというと必ず嫌い苦手があり二つで比べているそうです(比較検討)
太陽が好きならば月や別の星にあんまり好きではないのがあります。
飢えは上の無い病、計らいは最上の苦しみ。 (関心の無い物にも比較はしませんが・・・それら全体を指す空には比較するものがなく超越しているそうです)子供の写真を集めるのは慈悲。自分の行った所で自分の写真を求めるのはエゴ。我に囚われると自分を集めはじめます。
お父さんお母さんお婆さんお寺お坊さんお線香、お月様、お昼。御とは尊敬、敬意を表します。お朝お晩とは言わないように、ピラミッドの中心に太陽がくるように、太陽が空の中心に来る昼には様々なことで苦労した昔の人は敬意を込めて感謝したのでしょう?現在太陽がなければ生物は生きていけません。
仏様の世界に住むご先祖様に『甘茶』はご馳走です。仏様のご馳走【甘茶香】
普段はご自身の好きな香りでも毎日同じおかずでは飽きますし、生きている人も誕生日にはご馳走を頂くように亡くなってからは命日が仏様の誕生日です。主役の仏様の好物で祝いもてなしてあげましょう。
お仏壇は仏様の住まいと言い、お線香は食事だといいます。
人間も家だけ有っても食卓が寂しければ家族は上手く流れません。ペットもご先祖様も1人で外食出来ませんので困った相手に利を与える花と線香と蝋燭をもてなす行為は最も喜ばれます。
新盆初盆には特に心を込めて相手を察してもてなしてあげましょう。
お線香の上げる作法は自分の好みや自分中心ではなく、仏様の身の上や心情を考えてどうすれば喜んでもらえるのか?
失礼のないように思いやりの心でもてなすのが【ご先祖様へのマナー】です。
ご先祖様だけ大切にするのは餓鬼の道ですからお釈迦様にも、餓鬼にも接待してあげましょう。
家でもてなしが出来ないのなら、沢山の人々と関係する社会でももてなしは難しい。
お線香の香りや種類が沢山あるのはなぜでしょう?仏様は好きも嫌いもなにもいわないのに・・・
「お線香も自分の事は何もいいません。自分を犠牲に隅々まで行渡り、人々を平等に香りで持て成し潤いを与え、お線香は仏のように相手に与えきりで様々な苦を抜き楽を与える慈悲の極みです。」
お線香は一度火をつけると最後まで燃え、我が身を燃やして人々に癒しと香りを持て成しますが、
仏様も釈迦力に自分のエネルギーを燃やして様々に人々を癒し、利益と幸せを与えてくれますのでお線香を焚いて祈りと感謝の心を供えます。
仏様だけでなく 『ご先祖様も助けてくれているのかもしれません。』
ご自信も仏様の好きな花、線香、蝋燭のように仏壇が汚れる、煙が困る、香りが嫌いなど自分の事は言わず1番はご先祖様に供えておもてなししてあげましょう。
『この文章中に出てくる 六波羅蜜 とは?』
世界には昔から宗教によって様々に神様、仏様へ祈り・感謝を伝える方法があります。
香り、生贄、儀式など沢山ございますがそれはなぜでしょう?
悩める人は演出と集団儀式で喜びと価値を見出せるからである。
ピラミッド・七福神・ナスカの地上絵?モアイ像?祭壇?古墳?ミイラ?
人それぞれの環境で相手を察するものさしが違いますが、仏様を察して地方ではお盆にお墓まで迎えに行ったりお盆明けには舟で送り出す地域があります。清の始皇帝のお墓には皇帝を守る沢山の兵隊。ピラミッドにはあの世とこの世を行き来する船。
墓?平和?皆が自分では救われないので寺と教会は必要だそうです。
現在の世界の光景も、未来の人が見れば不思議に思うでしょうか?
困っている、悩んでいる人に、周りの指導者がこうすれば良いと指導しているそうです!
時の権力者は永遠の命と繁栄を求めましたが必ず亡くなり、あの世での繁栄を祈ったり、復活への儀式をしたりしたようです。普通の人なら豆を投げる行いが時の権力者なら話が大きくなりますがその肉体が復活して今も生きている人はまだいないようです・・・。その儀式は自分の為であったり親族の為であったり民の為のまつりごとだったりしますが研究の為に掘り出される場合も多々あります。仏壇は家族円満のまつりごとです。あの世はない、これはない、それは出来ないと否定する言葉を言えば相手は機嫌を損ねてしまう・・・
これならどうですかと違うのを提案、あちらのお店にはありますよと別の所をお勧めするといいそうです・・・!あの世が無いといえば相手は機嫌を損ねてしまう。才能があると誉めたりするのも相手を伸ばす言葉のおもてなし。復活を待つミイラは鼻から腐る脳みそを引っ張りだして捨て、頭脳とされた心臓を大切に保管しているそうです。
失敗して否定の言葉を受けるより、人は小さな成功を何度もして肯定的な言葉を受けることにより自分の存在を動機付け心を保つ。
私達は、年齢や上下関係を問わず、自分の立場や働きを人から認められ、大切にされると、それを自分にしてくれた礼儀とも受け取り、喜びも倍増します。そして自分も、理解してくれた相手を大切にし、相手の為にますます力を発揮しようとするものです。誉める事は相手にとっても自分にとっても大切です。潤いを手に入れます。
こういったところに、私達の家庭や社会を幸福にし、繁栄に導く秩序の基が築かれる。人との出会いが貴方を豊かにする。
世界では自分達が生き残りたい楽しみたいという利を奪いあう競争の結果に現在があります。
クリスマスを祝うのも良いです。しかし花祭りやご先祖様の命日をお祝いして相手に与える事も大切です。
@安心(気がかりなことがなく 心が安らぐこと) |
A普通 |
B不安(悪いことがおこりそうで
気がかりなこと) |
幸福(不平や不満がなく
心が満ち足りていること) |
普通 |
不平(満足できなくて不愉快に思うこと) |
幸せ(幸運に恵まれて、心が満ち足りていること) |
普通 |
悩み(精神的な苦しみ) |
楽しみ(楽しいと感じる物事、先のことに期待をかけて心待ちにすること) |
普通 |
苦しみ(苦しむことまたそのときに
感じる苦しい感じや思い) |
喜び
(喜ぶこと、またその気持ち) |
普通 |
悲しみ(悲しく思う気持ち) |
救いたい |
普通 |
救われたい |
求められる |
普通 |
求める |
☆満たされている(満足)
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☆どちらでもない(普通) |
☆満たされていない(不満) |
幸福=不平や不満がなく心が満ち足りていること。
幸せ=幸運に恵まれて、心が満ち足りていること。
幸運=運のよいこと
運=人の力ではどうにもならない、めぐりあわせ。
めぐりあわせ=人の意思とはかかわりなくめぐってくる運命。
縁=運命として定まっている、めぐりあわせ。
運命=人の力ではどうにもならないめぐりあわせや人の身の上
@にいる人はそれが普通なので解かりませんが、Bの谷に落ちている曇りの人が@を見ると羨ましく思ったり、@の山に上がると@の快晴になります。それはなぜでしょう?
無いものを求めて得られないのは苦しみ、今あるものに有る事が幸運だと感謝するのは潤い。
良い悪いでなくて「素晴らしい」と思うからだそうです。素の晴れで素晴らしい!
素晴らしい=感銘を受けるほどすぐれているさま。見事、素敵、理想的。
感銘=忘れられないほど深く心に感じること。そこにねたみ心は生まれません。
素晴らしいと感動(物事に特別な意味や価値を感じて強く心を動かされる)を沢山するといいそうです。
「甘茶のお線香で感動を覚えることが出来るのだそうです。」
毎日の同じ景色に感動は中々覚えませんが、山に登ると視野が広くなり感銘を受けます。
普段の生活は自分の事だけでも大変ですが、視野を広げると今まで気付かなかった未知の世界が発見が、ときめきを与えてくれます。
普通に毎日供えていたお線香にもこんなに深い、深い意味があるそうです・・・
@の人もBの谷に下りると@の有難いのが解かるので時々下りてもと好いそうです。
@の人には様々な余裕があり、人気があるので時間が無い人が多いようです。
@山 |
A平地 |
B谷 |
@明るい陽 |
A普通 |
B暗い陰 |
@見える |
A普通 |
B見えない |
足りる |
普通 |
不足 |
出来る |
普通 |
出来ない |
さて人間はどちらにいると色々な新しいものを求めるでしょうか?救われたい助かりたいお金持ち幸福になりたい。人間は自分に無い物を求めるようです。今あるものが無くなれば、出来る事が出来なくなれば、当たり前の事が当たり前で無くなった時には心は沈んで有り難いのに気づく場合もあり、ある内は中々気付かない。誰にも言われずにある内にそれが天使だと感謝できる人は素晴らしい人です。幸せで有り難い、不幸は考える時間を与えて頂き有り難い。不幸である事に気付かせて頂き昇る可能性もあるので有り難い。
受賞時レッドカーペット上は赤色を見るたびに目に刺激があり時間を長く感じる最高の場所であり、それを降りると興奮のアドレナリンは頂点では無くなる。赤いカーペットを見ながら赤い時が終ってしまう今後を考えていたなら、もっと長く感じます。幸せな冷静な深く入る青い時間は竜宮城のようにあっという間に過ぎてしまいます。辛い苦痛な不幸な赤い時は、靴の底に剣山をいれて歩くような事で嫌だと思う度に鮮血を見るような刺激的な時間が短い間隔であり非常に長く感じます。不幸な人生は幸せな人生より残された貴重な人生は長く険しい血を見るような考える上り道で、体感時間は非常に長くゆっくりと不幸を感じることが出来るので、長い人生はとても有り難いのです。
青春は竜宮城のように早く過ぎるのは、何も知らない未知の楽しい世界で笑顔と希望に溢れ、今まで経験したことの無い新鮮な青い瞬間で興味があるからです。人生を若く元気に生きるには何も知らない未知の新しい事を始めて今日を始まりと思えば好い。好奇心は気分も体も快適にするようです。自ら進んで行く知らない昇天の行き道は発見や驚きもあり体感時間が短く、何事でも知った嫌々の堕落の帰り道は赤く長いのでいつも始まりの青い人生☆年齢と見た目が違う人がいるのは心に期待感があり細胞が活発に働き老化しないのでしょうか。同じ時間と空間を過ごしてもスムーズで坂を下るような好奇心のある楽しい笑顔の生活をした浦島太朗は若く、普通の難関な坂を昇るような厳しい生活をした人は老いたのは心が老化の時空を決め、同じ時間でも体の囚われない集中した青い人生は冷静で、期間は短く感じて人生の経過時間も短い。様々な事に囚われ十字架に縛られた人生は鮮血の人生で期間は長く感じて人生の経過時間も長い。前向きに笑うことも大切です。
若くても年齢を重ねているように見える人は凝縮した血をみるような苦労をしている人が多い。
求めるのはBになったときに@を強く求めるそうです。
夫婦でも心を新鮮に保てば長持ちするそうです。緊張感が鮮度みたいで一緒に日々新しい事を始めるような初々しい入学生のように春のような関係でいる事が出来ると冬が来るのを遠ざけるそうです。
一緒にいるのが当たり前になると鮮度は落ちます。相手を満たしたいと思うココロを忘れてはいけないそうです。恋は願望、自分を満たしたい。愛は相手を満たしたい!!映画や物語も自分の今の環境で、悲しいのが善かったり幸せなのが好かったり・・・。
人は環境に左右されるそうです。自由の女神は右手を掲げ、ニューヨークの証券取引所の銅像は両手の手の平を下に向けて下ろす。世の中には下から昇ろうとする立場、上にいる立場があるようです。
暑ければ(厚い)黒く、寒ければ(薄い)白や青に。太陽が沢山当たる暖かい所では朗らかに、寒い地方では機敏になるようです。財布の中身が暖かければ心に余裕がでるのと同じで心に影響するのでしょう。
今のココロはどこにいるでしょう。
物の販売で考えれば不便を感じていない、今で便利と思い満足している人@には、これだともっと便利になりますよと提案出来なければ求めていないので売れません・・・。
逆に不便を感じている人Bは求めているので購入し易い。。
人間は普段なにかしらのB悩み、苦しみ不安を抱え逃れて@幸福、楽、安心を求めています。
もともと人間はだれしも死に向かって老いていく苦しみがあり、他に日常では悩みがあり曇っています。それを逃れるため賢い人は晴れを作ります。社寺が作った祭りや祝い事などもそうですが人は日常の生活から離れ悩み苦しみを陰気を忘れたいのだそうです・・・。
祭りで晴れを作る人もあればショッピングの雰囲気で晴れたり、お笑い番組を見て日常の陰気を忘れ陽気に晴れ、晴れ舞台のために用意して充実する人もいます。日常が晴れている人は日陰を求めることもあります。人は無いものを求める・・・
服でも今で満足していれば求めませんが、満たされないのでもっと良いのを求めます。
欲する心を抑えなければいつまでも満たされる事はない。愛着を覚えれば、それが壊れた時、亡くした時には悲しみを生む・・・。
普通にいれば冷静ですが、谷が深ければ深いほどそれに反比例して山を大きく求めるそうです。
陽気な子供が駄目なことをした時は父の厳しさが苦を抜き去り、母の優しさ楽を与えるといいますが、浮いた心を父が叱ってBへ落とし母が大丈夫よと慰め楽を与える・・・。父の厳しさが母の優しさをより解かり易くする。お互いを高め合い優しさも厳しさも増したように感じる。(どちらも甘い家庭は、甘やかしているだけで効果は薄い)
赤と黒の関係のような、二人で行う振子式。苦を抜き去り楽を与える。(抜苦与楽)
沈香で沈めて白檀で浮かせても善いでしょう!
安心を得ている人、満足を得られている人@は心がもう救われているのであまり行動を起こしませんが、不安、悩み苦しんでいる人Bにこうすれば救われるもっと良くなると提案すればそれによってその人は救われます。「お金持ちになりたい」と黄色のものを購入する人もいますが、本来の志とは違い黄色のものを手に入れて満足しお金持ちになっていなくても、その時は病は気からというように、気は救われている場合もあります。
(これは病のある人に3ヵ月後にはもう駄目ですよ、というとその人はその間に悩み苦しみますが、こうすれば良い、「大丈夫ですよ」といいますと、駄目でも、三ヵ月後に亡くなってもその人はその間は救われているのと似ています。)スピリチュアルもよく似ています。
曇っていません!全てが光っている!オールライト!悩み苦しみ沈んでいる人に黄色の物は闇に光る星のように希望の光に見えるのでしょう!
「お金を儲けるのは簡単だ。自分が貧乏である事に気付き、もっと注意深く物事を考えるようにすれば良い」とエジソンは言ったそうです・・・。大乗仏教は自分だけ救われるのでなく、皆で救われようと大きな一つの船に乗せるそうですが貴方も大丈夫と言われれば駄目でも救われた気がして気は救われます・・・。家族の船、会社の船、国の船、地球の船、貴方が舵取りをしているのは?
三ヵ月後に死ぬ人は、死ぬということを知らされて残された三ヶ月を有意義に過ごしたい人と、三ヵ月後に死ぬということを知らされずに知らぬが仏で過ごしたい人。その人はどちらなのか知りたければ、健康診断に自分から進んで行く方は知らしてほしい人が多く、金銭面に関係なく健康診断を自分から断る人は、知りたくない場合が多い。不幸や悩みの血をみるような一瞬停止する赤い時間は長く、楽しみの海や空を見るような円滑に流れる青い時間は短く深い。上手く流れない凝縮した人の人生は短い。
満足とは足が満ちると書くように足りているので新しくは求めません。不足は足が足りないので求めます。飽きられないようにするには満足の一歩手前で辞めておきましょう。全てを知ってしまうと飽きてくるように、未知の世界、ミステリアスな部分をおいておくと満足されず求められます。心から全ては起こるそうです。束縛された動物より、自由に大空を飛び舞う未知の鳥、自然の動物に魅力を感じます。
木は囲まれると困るように、人生も囲まれると囚われる。花は散るが葉は茂る。雑草は逞しい。
こうすれば救われる。一つだけ願いを叶えてくれるなら・・・願いが叶わない恐怖から救われそれにチャレンジすることができる。それがお守りか祈祷か占いか世にも珍しいお地蔵様なのか?願いは三つは自分で解からなくなるので一つだけ・・・。心に暗示をかけるだけ!
仏教聖典にも心から全てが起こると最後にあります。
他の宗教や仏像を壊し崇拝対象を一つにするのも同じ事のようです。
お線香も毎日ただ供えているだけ、お参りするだけでも良いと思えている人は自分の気は救われていますが、周りと環境を高めあうのは難しい。
悩める人を救う側にいるお医者様。助けられる病人。年老いた人や、上から入れる洗濯機が不便と感じていた人も多いはず、斜め式がその問題を解決してそれを救い大ヒットしました。人の心を満たす電化製品。電化製品によって満たされる人。
救う側(満たす側)にはお金が入るが救われる側(満たされる側)はお金が減ります。@に成りたいならば救う側(満たす側)にならないとならないそうです。相手を満たす・・・人を助けたり教えたり楽しみを与えたりする行為は忙しいですが自分も心が満たされ幸せです。
救われたい、満たされたい人は暇で、自分がどこまでいっても満足できません。満たす側、救う側にならないと・・・。利便なものを追い求めると簡単な事でも億劫になり苦しみに変わる。
@の言葉は心に潤いを、Bの言葉は心が汚れ潤いを無くします。
『もどれもどれ生まれた頃の純粋なココロ、あらゆる困難に立ち向かう勇気に満ちたあの頃のココロ』
Bの状態にある人を救うには相手を否定すると話をうけつけなくなるので違うと思った話でもそうですねと話をあわせてそのあとで提案するのが良いそうです。こうすれば救われるより良くなると・・・。
YES、BUT法という営業にも使われます。相手に余裕があれば観音様のように行雲流水のように話は進むのでしょうが・・・。
九官鳥を飼うにも罵声や否定の言葉を言うのを飼いたい人はいない。
否定する人の近くにはいたくないそうです。
占いや高額の商品を販売するときや心を射止めるときなどにはBの状態にあるのはさぐり、どれなのか聞き出し、このままではいけないと相手の身になっているように不安をあおり(揺さぶり)、こうすれば良い(幸運)と提案すれば谷が深いので喜びも大きく信頼を得るらしい。
(奥様が料理を作ってくれた際に塩が多いなと感じた時でも、最初に塩多いねと言うと心が普通AにあってもBになる、聞く耳も持たないかもしれません。
せっかく作っているのですから最初から駄目だしはしないで最初は美味しい、いつもありがとうと褒めたあとにもう少し塩を減らすともっと美味しくなると話すといいそうです。
相手を否定する不味いなどBの言葉は使わない方が善いらしいです。料理を作った奥様の心も言われる前からAではなくBにあるかもしれませんし・・・)こうすればもっと良くなる/これはあらゆる所で応用されているそうです。Bの人には効果的です。
能の面、小面や若女には好いですが秘密の教えのように女性が感情でなく論理の智慧を持ち過ぎると角が出て般若になり効力を失う場合もありますし、孫悟空のように手の平に治めてもらえる場合もあり増となる場合も有るそうです。
駄目だろうなと思えば駄目になりますし、自分で自分をコントロール(自分は幸運なのだとツキがある、ご先祖様に守られている気がする、出来ると@を心に言い聞かせたり)自己暗示して救われる人もいれば、お守りを持ったり呪文を唱えたり、こうすれば救われると他人や仏様に救われる人もいます。
救われたいと思うのがBで、救う側に多くいるのが@です。仏はその人をBから@に向けるのだそうです。
@にいる人は人脈もあり、環境が整い満たされていて上手くいっているのであまり考えませんが、売れないときこそ智恵がでるといいますが、なにかしないこのままではいけないと思っているBにある人こそ一生懸命になれる、ハングリーなので考えて智恵がでる場合もあります。ココロが汚れてくるのでBの言葉は発しないで@の言葉を何度も発すると回りも自分もやる気が失せず明るい未来が待っています。
苦難は学ぶことが多く、享楽は失う事が多い。空腹は動き、満腹は動けず。
戦も仕事の少なかった北陸や九州などの田舎といわれる部隊の方が宗教にも熱心で失うものが少なく、空腹で先頭に立ちよく活躍したといいます。
Bに落ちるのが善いのでなく考えることが善い。
二度あることは三度あるとは三回とも何も考えなかった人で、三度目の正直とは考えて行った人。
逆境にあれば考える。周りが助けてくれなければ愚かな者は地の底まで落ちる火の車に大丈夫とゆったり座りますが、考える気のある人はどうしてそこから降りようか考えます。伝説も映画も漫画も普段から離れて晴れをつくる為の例え話で現実ではないのでは?フィクションは気晴らしには好いけれど、フィクションに侵されると現実から逃避して実際が解からなくなり夢の国でアニメを見ているいるような気分になり死も他人事のように思えてくるのは恐ろしい。
千の風になってという歌詞が流行っているそうですが、神様の国、極楽でお話聞いているとは一言も言ってはいません。肉体や魂のあるあの世ではなく、風にのって塵から自然となって創めますから貴方の傍にいますと歌っています。あらゆる所にご先祖様が見える。あらゆる所に仏様が現れる法華経のお話でしょうか。本当に大切な人を亡くした方への力強く生き抜いて下さい、いつでも一緒にいますと勇気を与えてくれる歌詞です。
田舎の散髪屋は今まで来ていたお客が来なくなるとその人と会っても話もしなくなる人もいるといいますが、都会の人付き合いの出来る散髪屋は「久しぶり!元気にしていましたか?最近来ないけどなにかあった?自分から問いかけるそうです。客や相手が去るのは訳がある。そして自分に非があれば善人と同じでそれをありがとうと悔い改める。悪人は悪いところを指摘されると改める所かその事に怒りを覚える。客や相手には選ぶ権利があり、相手を満たせない店が繁盛しないのは訳があるのに自分は・・・、時代が・・・、早く降りないと大変です。
値段だけ満足させるサービスも大変です。相手の満足度を上げる特別なおもてなしが必要です。皆ライバル、おもてなし合戦。自分を売り込み貴方から買いたいと言われるのが理想です。信用と信頼は崩れるまでは岩のように硬い。
人は出会いとその繋がりにこそ生甲斐を感じる。
老若男女、自分の存在を認めてほしい。あなたが必要です。
仏像は普通Bのように見上げている者はいなくて髪の毛も皆上がっています。人間でも自信のある人、ある時は髪の毛を上げたり全て後ろに流したり、仏像は@なので皆下を見下ろしていますが、こちらはもっと上を見てそこから仏像を見るとこちらが上になり仏像は沈んでいる横に寝ているように見えます。
とても慈悲深い仏像が助けを求めているように見えます。京都に沢山仏像が並んでいる場所がありますが、正面からみると圧倒されますがもっと上を見てそこから下を見たり、横に回って裏を見てみるとほこりが溜まって金箔がはがれて仏像が助けと救いを求めているようにさえ思えます・・・
昔、戦国武将の武田信玄やその他の武将が神社や寺院で必勝祈願をしました。現在は受験や就職活動の人が祈願しています。このようにすれば大丈夫!戦で負ける恐怖、死ぬ恐怖からそうする事で人は救われたようです。武士道とは死ぬ事と見つけた、死ぬのが普通だと思えば恐怖から救われる・・・。
・・・なったらどうしよう???と考えるより、武士とは死ぬ生き物だ・・・それが教育で普通だと思え、男とは断られる生き物だと思えば断られる恐怖はなくなります。
自分より身長の高い人と戦うのは見上げないといけませんのでプレッシャーがかかります。兜の先端を大きく伸ばしてこうしているから大丈夫と自分に言い聞かせた人もいるでしょう?生物は雄が何か発してアプローチする場合がほとんどみたいですから失敗して当たり前なのだと思うと良いみたいです。しかし本当は迷惑をかけないように相手に喜んで頂く様に気遣いがあれば犯罪はへります、気遣い、思いやりと真心が必要です。ですが世の中には闇がありそんなのは関係ない!人生一回、自分が好ければ良いと自分の欲を満たそうと先を考えるのを捨て周りの事も考えないで行動する人もいます。願望は満たされ自分は救われた気がします。
現在も様々に落ちる恐怖、交際を断られる恐怖、駄目になる恐怖、断られる恐怖からも救われています。士気をあげる方法に使われていたようですが、それが無くなると悩み苦しみを生むので無くならない物を心の糧にした方が良いそうです。社寺仏閣は沢山の人から心の糧になっているところは復興します。
戦場は上の人が下の人を救うのが楽なように、上から下に攻める方が気分的にも体力的にも楽です。人生の戦場も自分を@に昇らせないととても大変です・・・
病は気からというように野球選手でもピンチになった際には100%の力が出ません。精神的なもので打たれたらどうしよう?悪いイメージが過るもの。ランナーが気になる未来が気になる・・・。そんなときはご自身でおまじない。先の事は考えても仕方がないので、プラス思考でこうすれば大丈夫良い結果で終わるイメージを持ち、呪文でもお守りでも自分の手に人の字を書いて飲んでみても、家族でもなんでも自己暗示。こうすればこうなると良いイメージすれば勇気が得られます。そして打たれた際にはこれだけで済んで良かった、幸運なのだと自己暗示。人生も大丈夫、良い、良い良いとプラスの思考で今を楽しみながらいくと良い。(交通事故もそうです。車の交通安全の祈祷も新車の不安もこうすれば大丈夫。受けても事故は起きる場合もありますが、大破した車をみてこれだけで済んだと事故暗示)
小さな幸せを沢山感じて頭の中が幸せ展開になれば自分が変わり周りも変わる。
現在がいつも第一歩だと踏み出せば、常に希望に満ちてくる。
花は咲いては散るが、咲く前に散る花もある。様々な遺伝の花が美しく咲くためにはまず善い器と善い肥やしと善い水と光を授かる環境が必要。人も同じで美しい花を咲かせるため、食べてゆくために、好い器と土壌と水を手に入れるために勉強したりダイエットしたり好い服を着たり、高層ビルの好いように見える光を求める。花によっては自分のために動物まで食べ栄養とする。それは太陽系の仕組み?出来れば大切な花に要らない花粉が飛んで来ないように、網なしマットをかけて悪魔の投げた餌、罠から遠ざけ隔離するのが好ましい。あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、値も知れないほどにすばらしい宝は得られないように、迷いの泥海の中に入らなければ、さとりの宝を得ることは出来ない。山のような大きな我への執着を持つ者であって、はじめて道を求める心を起こし、さとりもついに生じるだろうと仏教聖典にもありますが、深い泥沼の奥地へ入ってそこで勉強することもあるでしょうが知らぬが仏、獣は身を引き裂くだけだが悪友、悪い花粉は心を引き裂くので近づくなと同じような言葉があります。
花、それは美しい。花のあるところには生物が寄ってきます。赤い花には豊かな人が、黄色い花には希望を求める人が集まり、青い花には冷静な人が集まってきます。美しい類は美しい類を呼び、波長が合うのでしょうか?紫の外の線はあまり好くないそうです・・・?
美しく咲いた花にも人が集まる。美しく咲いた太い陽の花は、相手に強く発して強く惹きつける。光を発してなお引力のある太陽と同じだそうです。赤と緑、黄色と黒の関係!希望のひかり!造花と同じで、形あっても匂わない花には、希望や夢が持てず人は集まらないそうです・・・。
蓮は汚れた水にしか咲かない?咲けない?汚れた水の周りでは蓮が輝くのはなぜでしょう?周りに汚いのがあればこそ、悪いのを知ればこそ、苦労をして手に入れてこそ、美しく尊く感じる。
皆が良い人ならそれは当たり前になり、一目をおく善い人ではなくなる。
光の中の光る花畑にいるよりも、闇に咲く一輪の光。幸せは無くなってこそ尊く感じるのは比較対照があるからでしょうか?悪いのを知れば良いが解かり、良いのを知れば悪いが解かる・・・
暗闇に光る北斗七星。悪人の中で光る善人。暗闇でないと見えない、昼間では気付かない。そこに幸せがあるのに闇を知らなければ解からない。幸も苦労して手に入れないと手放したく無いほどの幸ではない。雲の隙間から差し込む他への光は筋が見える、他へのもてなしも。
水が出っ放しの神社があるがそれは水が大切だと気付かせる・・・。
人の振り見て我がふり直せとはよく言ったもので周りがそうならあんな人にはなりたくないと自分は治そうとする人もいます。
相手に気付かせる相手の技ともいえるのでしょうか?
駄目な親なら子供がしっかりする場合もあります。智慧で演じて導くのも善いのでしょう。
グループに一人の華。花は綺麗な花だけで、綺麗な花ばかりで見るよりも、綺麗でない花を知ると、一緒に見ると綺麗が一段と綺麗に見え、昼では見えない夜空の星のように解かるそうです。苦労をして手に入れたならその価値は何倍にもあがる。その花の咲くまでの過程を知れば特別な感情を覚えるようです。高嶺の花は手が届かない凛とした空気がありますが、届いてしまうと普通の花になってしまう・・・。手に入れた気になる籠の中の鳥には魅力は感じない。
釣るもの、釣られるもの。活かすもの、活かされるもの。救うもの、救われるもの。満たすもの、満たされるもの。男性は釣りが好きな場合が多く、女性は買物が好きな場合が多い。餌をかける者と、餌を食す人。どちらも必要で片方だけなら経済は成り立たない。花と土と水の関係。貴方は相手にとってどれに当たるのか?起承転結。春夏秋冬。緑赤茶黄青。木火土金水。栄盛衰枯。生まれ老いて病に成って死ぬ。花のようにうまく潤滑に流れ最初に戻ると好いのですが、発するのが陽で受けるのが陰。トイレと同じで溢れたり詰まったり心体のメンテナンスが必要。薄いのから濃いのへ、黒いのから赤いのへ。朝が来て夜が来る。夜が来るから朝が来る。しかし冬に芽生えがもう一度あるといいですが、夏の繁栄の火で秋に枯れて咲かない冬のままでいて春にならない寺もある。炎は繁栄の火。昇れば降る。
本能寺の変後、窮地の徳川家康を助けた寺のそれからと、幕府最後の際、菩提寺の結果。寺も誰をいつ救うかで変わるそうです。製造元、小売店、問屋、徴兵、国。昔から繰り返される現象、どちらに付くかで貴方の運命が変わる。
栄枯盛衰を、木火土金水を理解して味方になると好いそうです(自分に善いのか、社会に良いのか、相手に良いのか??)。今が火災の時!時代には節目があるが、後に考えれば成功したひとはそのときに考えた人、運の良い人が多いようです。歴史は動く・・・。
太陽は律儀になにもいわずに毎朝同じ場所から昇り下って下さる有難いもの。毎日違う所から出てくれば世の中も変わるでしょう。有り難い存在です。(実際は太陽の場所は同じだそうで、地球が回転しているのだそうです、皆に太陽が当たるように地球の思いやりなのかも知れません???)
O型の方はおおらかといわれ理由がなくても大丈夫ですよといえる人が多いようです。駄目、駄目というよりは大丈夫、「なんとかなる」と言われればその場は救われる場合もあるようです。(銀行や日本も駄目といえばお客様が取引停止をして、景気が好ましくない状態になる事もありますが、言わなければその場は救われます。マンションでも、サプライムローンでも、世界の市場情勢でも。
低所得者を対象に成功したのはあまり続かないと聞きますがお金を廻すのを低所得者まで対象にするのは飽和したのでしょうか?
最後はどの道を行っても値段だけの競争のように結果は駄目なので、いつかは誰かが大変な思いをします。論理も必要。
助勢でいえば最後の手段なので落ちる時はとことん落ちる。ネット社会、他のの自由競争は自分が生き残りたいので他店より安くしますが、市場が売れてない状況でも他社の中身は解からず心理戦は不安で下げれば売れるかなと価格だけ下がる競争になり易くデフレで難しい。他店より1円でも安くしますというのは決意で、誰かが下げなければそれ以上は下げないが、下げれば赤字でも下げるということをいっています。仕入れて販売するところなら大きなところしか勝ち目はありません。
小出しをして負担の増加をして、少しずつ苦労をしていないと地震のように溜まりに貯まった力が爆発して一気に負担する事になります。国が潰れた場合、紙幣価値がなくなり製造業の仕事は増えるのでしょうか?もっと大きく様々な事を考えないといけないようです。
大体担当者が変わるのは30年周期ぐらいが多いようですが、後に受けた担当者、その時の子供たち、全国の市町村他、世界で苦労する人がいるようです。今大変なのでお金を借りるとその場は救われる、そして大変なので別の所で借りる、自転車操業とよく似ています。こちらを救うと、別の所が潰れてしまう・・・。日本は戦後に比べると現在大変といっても豊かだそうですが、もっと食べるのにも苦労している国もあるので有り難いそうです。
売上を上げるのに安売。新しい店を出さないとお金が回らず潰れてしまう。借りたその人も大変ですが、貸している人も債権割れの危険があるので大変です。周りの企業も大変です。銀行は担保がないとどちらが転んでも大変です。担保、保障、売上。第一次世界大戦の敗戦国。借金が沢山出来てしまい、相手の景気が悪くなり債権の回収を要求されて国が大変になり、後に戦争という波に進んでしまう。今までに学んで三度目の正直になれば良いですが水に動きがないと腐るように、市場に動きがないと潰れてしまう。全国でお金を滞納している個人や企業も多いと思いますが、このまま増税しても潰れる会社が沢山出て皆にお金が回らなければ個人も企業も国も生きていく為にどうするのでしょう。カード破産して周りに迷惑をかける人も出てくるでしょう。
小さな波の1個人が、1家族になり、1町になり、1県になり、1国の大きな波になる。大きな会社が潰れるとそれによって苦労する人が沢山でるので、大きな会社を存続させることで小さな会社が潰れてしまう。人が来ないので高速道路を作って便利にすれば来るだろうと建設すると、お客様は日帰り出切る様になり宿泊所は寂れてしまう・・・
現在1家庭を補助するのも、障害者を補助するのも、老人を補助するのも大変な時代がやってきたそうですが、今小さな段階の時にやらなければ、小さな地震を連発していないと、国が潰れるような大きな歪みができてしまうのでしょうか?
地震の原理と同じで、世界は繰り返しているのだそうです・・・??)
今、国が救われるよりもっと大きな地球が救われないといけない時代がきているようです。
ノアの箱舟には誰が乗るのか?何人乗れるのか?水や食料は?行く先に障害はあるのか?
人間は人とのかかわりがないと生きていけないといいますが、仏教では先の事を考えるよりも、まず自分が煩悩で燃え尽きようとしているので、それを先に鎮めなさいとあるようです。
人は人との出会いに喜びを感じ、その繋がりにこそ生甲斐を感じるそうです。
自分にとって心が入らなければ他の生物と同じですが、
縁ある周りの人とお互いに環境を整え合うと良いそうです。
お線香は古くから「信心の使い」と言われ香をたくことによりその香りが心身を清め、自らの内にある仏性(仏の種)を目覚めさせるとされています。
また線香は「仏の使い」と言われ、浄らか信仰の真心が香の煙にのって仏さまに伝えられる方法といわれています。
参考資料 鎌倉 住職
仏様の喜ぶ 「甘茶香」 は、自分中心の貪りの心から仏様が衆生を救うために仏の使いとして姿を変え現れた 「仏の化身」 です。
人間は良い事をしようと思っても悪事をしてしまう。悪事とは相手にとってである。友を愛すのは普通ですが、友も家族も時がくれば利害関係が変わり自分にとって利が無い場合は計らいから愛は褪める。
礼拝場のお寺に行った際、本堂へあがる前にお線香の煙を全身に浴びる意味は何でしょう?
仏様は清らかな物 『清浄』 を好むといいますが、それは植物 『花』 であり 『香』 であり、 『灯』 であり 『水』 であり 『米』 であるのは自分を犠牲に他を利するものだからだそうです。
相手の利になる生命が好き。
仏さまを大切に想い、自分に出来る精一杯の持て成し、こうすれば喜んでもらえるのかなと他を利する御供えしようとする清らかな心『思いやり』 と 『真心』 が仏様の 『好物』 です。しかし生臭い、「生の物」、動物 『肉や魚』 、『怠け心』 は好まないそうです・・・。自分達の利の為に奪った生命が嫌い。
生物や動物には生みの親があり家族があり、それを自分の為に沢山の生命を頂く、仏性を煩悩の垢で覆う人間は「不浄」な生き物で、その汚れた息が直接 「清浄」 を好む仏さまにかからないようにお線香の煙で「心身の汚れの煩悩と生臭い息を清め」ご本尊様に近づかせて頂きます。
仏壇の前に座る以前には身だしなみ(服装、口臭他)を整え線香の火は人間の不浄な息で消さないで左右にあおいで消します。神社では清水で清めます。
昔は人間に近い四本足の生物を食べてはいけない時期もありました。
「美味しい」ので食べれば良いのですが生物を頂く際には 『感謝』 して頂きましょう。ご自信の心が潤います。作ってくれた方の精一杯もてなしを作る馳走を見て脳裏に思い浮かべれば有り難くなります。
お釈迦様は全ての生物は仏に成れるといったそうです。植物も動物もそうですからそれを頂戴して生かして頂いています。
心が入らなければ自分も他の人に感謝して上手い話や、美味しい話、自分を頂かれるかもしれません。
チンパンジーは小猿を召し上がり、雀蜂は蜜蜂を頂くそうです。弱肉強食の世界。
このままではいけない空腹は動きを出して進化するそうです。今で好いと諦める満腹やストレスで食べ過ぎても太るだけでもう大人は進化はしません。空腹で様々な事を考えると進化できます。
染色体異常や突然変化に期待するのでなく自分で新しい事を求め学ぶ流れを作る。
「生命」を頂いているのを考えれば 『頂きます』 『ご馳走様でした』 という言葉が自然と生まれます。
人は現在支配されていないので自由がききますが、宇宙人などに支配され、自分達が養殖されて何県産が美味しいなどといって、自分や親類が紐で吊るして品評会されるのをイメージすれば食されるなど人で考えれば集団生活をする動く物、動物の親子も本当は食べられたくはないでしょう・・・。
動物も逃げます、権力を持ち相手が主になれば美味しく召し上がられる。相手の立場に自分がなって初めて人は解かります。
一生懸命一本道を働き他に利や危害を与えるのは人間。羽で自由に空を飛び他に潤いのみを与える人は天使。
一生懸命地上で働く蟻は働き蟻。羽で自由に空を飛ぶ羽蟻は人には害虫。蜂の世界も皆同じですが自分の置かれた立場で利と害が違う。
帰国するのにお金が無く、周りから奪えば自分は救われますが相手は救われません。
鳥又は、足の無い魚は「絞める」といいます。仏に成るとは自分から見て、自分にとって相手が鉱物、動物、植物他が仏になるそうです。
相手を救うものは、救われる者からすれば全て仏になっている。陰に光の利を与えるもの!
お釈迦様が言われた私亡き後は自灯明せよとは、今までは経の光に照らされていた救われる立場だったが、今度は自らを光らし相手の闇を照らし救う立場になりなさいということです。
極楽にいる極楽鳥は 「六道輪廻から抜け出せた鳥ではなく阿弥陀様が姿を変え」 皆に人を?救う教えを説いているといいます。
「この世にいる鳥、豚、牛、生物も阿弥陀様?お釈迦様が姿を変え現れている」 のかもしれません。
そして仏に救われる側でなく、「救う側に早くお成りなさい」と教えているそうです。
様々な人に環境の違いで様々な悩みが沢山あるので宗派が色々あります。
生きていくだけで精一杯の人には、金色の物や黄色の物は希望の光に見えます。
光があるので陰が出来ます。太陽の光が物質に当たりその下の影では紫外線を防いだりして涼しい場合もあるそうです。光を除けば闇になる。太陽を除けば全てが闇になります。温暖化を防ぐにはオゾン層の幕を作るのか?それとも温度を下げるよう努力するのか?太陽が無くなると人工の太陽を作るのか?
伝教大師の一途を照らすという言葉の様に、地上では様々な相手に恵みを与える事が出来るように、希望の光の炎を繋ぐように太陽の届かない所では希望の陽光を差し伸べ相手の気を救う人もいます。発するのが陽で、受けるのが陰。光を皆余すところなく発すれば闇は無くなる。 相手の悩み苦しみの闇に、喜びや幸せの光を射すこと。
寺院では相手に応じた事を発する対気説法なので、闇が救いを求めてこなければ中々救えない。相手が求めることを発してこないと応じられません。知らぬが仏というように知らなくて良いことは知らなくて良い。知ると悩みを生む恐れがあるからだそうです。キリスト教ではこんな光の世界がありますよと提案するようです?(仏教は悩みと苦をなくする消去法だそうです)
現在の宗派にあるのも自分の肉体、頭脳、容姿、周りの環境もご先祖様の徳の積み重ねた結果です。徳を積んだ人やその子孫は繋がりも太い。自分の為に来世を阿弥陀様に頼むか、お釈迦様と共に今世で徳を積んで子孫に喜ばれるか、現状は一気には変わらない。
光は求める人より与える人は強い。与えるものは強い、貯え(蓄え)のある者はより強い。
黄色い物を見て大丈夫、大丈夫、大丈夫と三度秘密の呪文を唱えれば救われる、心が明るくなり救われた気がします。(病は気から)ブランド物を持ったり化粧をしたりすると、豊かになった、若返った気がします。(本当は服装も化粧も相手への礼儀でするのが良いそうです)
「永遠の光と平和」「永遠の希望の光と、心の平和」は信仰(気)と努力(力)の車輪でまわり、同じ大きさであれば幸せという人生の目的へ進むそうです。
「法華経ではこの世のあらゆる所に仏様を見ることができる」 といいますが、この世でもあの世でも現れて教えてくれているのかもしれません。
淡路梅薫堂に毎年来る 「燕」 は悪人と違って、嘘をついたり他の燕をだましたり、様々な煩悩があるように思えません。
本能、習慣だけで毎年やって来て「生きていく事だけに必死な姿」や、(恵まれない、治安の悪い所に住んでいる人は、自分が生きていくことだけに必死です)自分のためにではなく我が子の為に餌をとってくる姿は、己を忘れて他を利する与えきりの 「慈悲」 の極みの心に見えます。とても幸せそうです。
動物を自分たちの為に頂き、救世観音のお告げをうけて、前世の因縁によって観音菩薩が一生の間妻となり、その傍らにおり浄土へ導いてあげようとの事から、法然上人にも念仏を唱える上で妨げにならない限り許された親鸞聖人の妻帯に続いたお住職様も聖域である本堂へ上がる前には、お香(漢方薬)を粉末にした塗香で仏様に近づけるように心身を清めます。
戦争は敵か見方か解からなければ自分が殺される可能性があるのなら、家で待つ家族の為にも相手を撃つそうです。戦争で町が襲われた時、隣の人が玄関を開けてといわれた時、銃声がしていれば玄関を開けることは出来ますか?環境が整わない、豊かでない時、おもてなしは出来ますか?ご自身の家が煩悩で燃えている時は難しいようです・・・
人は大切な順番をつけるそうで宗教が違う派閥が違うのと同じで、自分は救われるが全ての相手は救えない。
動物もペットも同じで、心が入らなければ自分の家族を優先するようです。
環境が全て心に叶うと、親切で謙遜で、静かであることができる。しかし環境が心に逆らってきても、なおそのようにしていられるかどうかが問題だそうです。
自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住が容易に得られない時、このようなときにも、なお静かな心と善い行いを持ち続けることができるだろうか?
環境が叶えば人は豊かでいる事ができると言いますが、住職なども自分が食べる事も不透明では相手から信用を得たり、貧しい人も助ける事が容易ではない為に悩み苦しむ人を救う教えを与えるお寺には税金が掛からないともいいますが、家族を持つと人間なので平等に接する事が難しいので、昔は妻帯を禁止したのでしょうか?修行中の僧がいる所では女人禁制にして、囚人のようにまわりから欲を遠ざけ隔離したのでしょうか?外へ出れば更生したり我慢できるのでしょうか?
僧になるという事は俗世間を絶つ死人と同じだと聞きますが、欲望は決して無くなりはしませんが抑える鍛練を山で、そして社会でするそうです。
子供を持つと執着して大切な順番をつけ世襲や、物事が見えなくなるのは良くないけれど、相手の子供を持つ人の気持ちが解かるには良いのでしょうか?背負う物、守るものが沢山あると人生の山道は重く大変ですが責任と使命感が出来る人もいる。
中国でも高僧は奥様を持たないのが続いているようです。
お金に困っていて騙されるかも知れない社寺が有れば、誰も信じられない恐ろしい世界になるので社寺は金銭などの環境が整っていないといけません。
葬儀は亡くなられた方、ご家族の為にします。若い頃は結婚式が多く年老いてからは葬式ばかりで気疲れする人もいますが、家族で死という闇と向き合う大切な行事です。金銭面も大変ですがそれ以上のものが守られるといいます。暗い行事なのに暗い服装、暗い薫りで一層沈みますが心を静め落ち着いて厳粛にもてなす環境です。暗い行事を明るい希望の行事にすれば亡くなるのは辛い事で無くなり軽視してしまう。一長一短、全ての置かれた環境の人に合うものはないですが家族の普段を円満導く大切な行いです。片方だけ求める計らいは叶わないので苦しみを生む。
伽羅や沈香、白檀のお線香などは仏様に香りを供養・献上する意味、汚れを除く意味、浄土を再現する意味などがあるそうです。仏の使いと言われその場を 「厳粛な空間」 に変え人々の仏性、仏の種を開花させ仏ゴコロを導こうと現れたものだそうです。
仏壇の花、お寺の庭園、美しい景色なども、人々の仏の心を目覚めさせ、安らぎを与えてくれる縁起になるそうです。
文章でも、お話でも聞く耳を持たない、読まない、気の無い人には目に見えるもので抽象的に訴えるのが一番です。
目に映るものに囚われてはいけないと仏教聖典にありますが、イメージを思い浮かべて安穏へのきっかけにする為に、仏像や庭園、形式があるそうです。
お線香の主成分「漢方薬」には鎮静作用(気を静める)の効能がありますので、
心を落ち着かせ悩み・苦しみのない悟りの境地(極楽浄土)へご自身を導くのを補助します。
お釈迦様の言われた 「香は部屋の中でたきなさい。そしてその中に入り気を静めて、無の境地になりなさい」も実践出来るのです。静かな心は相手も落ち着かせ山のような信頼を感じるそうです。
一日の終わりに香を焚き、何も考えない時間を三分持って下さい。(禅定波羅密)
大切な方を亡くされたご家族の場合、 「心の悲しみ」 が少しでも平安になって頂くように漢方薬の沈香や白檀のお線香で 「心穏やかに、気を沈静」 させて下さい。
ご先祖様のこれからを祈って、甘茶の線香も供えてあげて下さい。
高価な値段の線香、伽羅のお線香が一番の供養?
線香はご自身の好きな線香?ご先祖様の好きな線香?
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「そんなことありません。」
奈良薬師寺の 「高田好胤」 和尚は 「お線香は良い物を使いなさい」とお話されたそうです。
良い物とはどんなものでしょう?値段?地球に?自分に?仏様に??相手に???線香????原料?????誰に善いのか??????誰が決めるのか???????
お金があれば値段の良い線香を供えてあげれば結構ですし、店の人にも喜ばれますが、仏様の好物は相手の事を考えてどうすれば喜んで頂けるのかを考えて相手を大切に思い身の上や心情を察する思いやりでもてなす清らかな真心です。
お寺様の身の上を考えればオイルのお線香は経を読む際にのどにかかるそうで、好まれる天然の沈香のお線香ならば経を読む際にのどにかからないのでお寺様には喜ばれますし落ち着いてお勤めする厳粛な空間になります。ご先祖様にはその人の生涯と生き方によっても喜ぶ物は違うと思います。死んだ人は皆極楽へ行くそうですが、自分でなく相手の事を考えられるようになったご先祖様の喜ぶ事は残された方が人々を助ける悩み苦しみのない『幸せの船』に乗って明るく過ごしてくれることです。相手の身の上を考えるだけで人は幸せになれます。
自ら進んでなにかしてあげたい!頂き物のまんじゅうを先に供えてあげる、朝一番のご飯を先に供えてあげる。
人間も古い水は飲まないように仏様も新しい水や茶に変えてあげると喜んでもらえるかな?と人それぞれに価値観や相手を察するものさしが違いますので自分で考えられるもてなしをしてあげると良い。
仏様が来られて夕方になれば水や茶が無くなっていてその水を飲まれるわけではございませんが、仏様は相手を察する思いやりと精神誠意他を大切に思いもてなす 『真心』 を美味しく召し上がられます。『仏様の食事は、思いやりの心でもてなす真心です』。自分の利便で無く、相手の利益のもてなしが大切です。
お茶の湯気がご先祖様のご馳走と聞きますが湯気が出るのは出来立てだから・・・
自分も一時間も経ったお茶を出されるとどうでしょう?心なくして習慣でご先祖様の給仕をするのではなく、自分がご飯と香辛料だけの生活で考えても、毎日和牛三昧、毎日同じおかずでも飽きるように仏さまに自分の好きな香りばっかり供えるより時々は相手の身の上を考えて様々なお線香のお供えも喜ばれるそうです。仏に成ることが出来たご先祖様にはお茶の代わりに甘茶でも喜ばれるでしょう!
仏様の好物 「甘茶香」 でお誕生を祝ってあげると喜ばれることでしょう。
頂き物のまんじゅうを供えてあげると夜には一つ減っていたなんてことはありませんし、皇族御用達のまんじゅうを供えてあげると晩には召し上がって「とてもお上品なお味でした・・・」と置手紙があるわけでもございませんが、仏さまに先に供えて頂く、お線香やご飯も先に仏さまに供えて頂く、饅頭のお下がりはお腹を養い、良い香りのお線香を上手く使えば、ご利益で心と身体を癒す。香りやご飯やまんじゅうのお下がりを頂いているのはご自身ご家族 「生き仏」 です。この行為をする事によって謙虚な心、思いやり真心も養われます。心が貧しくならないように環境を整えるのは大切で、香りの善い線香を思いやりでおもてなしすれば、原因、結果、応じた報いで知らずに心豊かな生活を送るのを補助してくれます。
お線香は値段で安いのを選ぶのではなく、せめて女性の場合は化粧品より高いのを選ぶと己を忘れて他を利する利他行になるといわれます。顔を化粧で隠して精神を保つのではなく、ご先祖様の接待にお金を進んで使うことは、心が清められて内から美が溢れご先祖様にも許され美容の願いを叶うといわれます。
ご家族で落ち着いて生活をしたいのに浮いたしまう空間を選んで、心が浮いてしまう洋風な香りを好んで使うのは知らぬが仏である。勉強するにも勉強をし易い空間づくりが大切である。赤い部屋で明るい音楽を聞きながら、明るいお笑いの番組を付けて明るい香りのお香を焚いて明るいジュースを飲み、お菓子を食べながら勉強すると、明るい色や楽をを求める子供には喜ばれ気が楽になり心地良いかも知れないが精神を集中して勉強に長時間取り組むのは環境が悪く浅く難しい。沈む畳の部屋で濁ったお茶を飲むようなお茶席のような空間は深い。眠れないのも遅くまで明るい部屋でいたり、番組が明るい話題だったり気が高まって眠ることが出来ない場合もある。仏様・ご先祖様と仏壇の前で向き合うのは陽気な浮いてしまう香水や洋風の香りでは心が散り易く、本当は和風の気が沈んで腰を降ろして心を合わせる落ち着いた薫りや畳などの空間が環境が整い利益を頂くには好いといわれます(座禅を組む時には環境を整えるため、陽気な薫りや空間では行わない)。好き、嫌いや習慣ではなくその空間を深め仏壇の前で物質的ではなく精神性を高める事が大切です。
お墓をたわしでこするのをやめて布にしてあげるなどそんな優しい心、心から仏様を大切に思ってあげる 『清浄』 な心が、相手を思う思いやりと真心が一番の供養、「仏様のご馳走」になるそうです。
ご先祖様に好まれることを最初は一つ考えてみましょう!自分が仏様だったなら?ご先祖様には?
『仏様は何も言いません』 何も言えないのかもしれませんので特に考えて大切にしてあげて下さい。
神通力を使いご先祖様を探して見ると、目連の母のように人間界で自分の好きな物(我が子・家族・自分の仏様・自分)だけを貪って、餓鬼道にいるかもしれません。
それを救うのは布施行やお持て成し、ご自身が餓鬼道に落ちないのも布施行やお持て成し。貪らず他人の喜びを共に喜ぶのは 『人の道』。ご先祖様の代わりに主のお釈迦様に好物を接待してご先祖様の幸せを増やしてあげましょう。
自分の仏様だけを大切にしないで、お線香もお釈迦様、諸仏、諸菩薩に供養し、ひいてはご先祖様の世界にも届きますようにともてなしするのが普通です。
人は三代前のご先祖様が祟っていますといわれれば不安になりますが、自分が知っている仏様が祟っていますと聞けばそんな事ありません、そんなことしませんと自分で安心を得る事が出来ます。罪の償いと罰を受けているかも知れませんが感情のイメージだけあるのでしょう。知らない未知の世界に不安を感じるようです。
仏様の好物、仏様のお誕生をお祝いするお線香 「甘茶香」 を亡くなられた方が仏さまと成って誕生できるように初盆や法事に伺う際にはお供えし、ご家族は亡くなられた方の分まで 「沢山の人々、ご縁のあった方々を盛大にもてなしてあげると善いそうです。」
仏様の喜ぶ甘茶香。送るときには相手の喜ぶ顔を思い浮かべれば楽しくなります。
自分が良い香り、良い香りと求めても何処までも満足は出来ません。だんだん香りの強いのを貪り求めて、鼻も悪くなりもう弱いのには戻れません。人は強いのを求める人と弱いのを求める人。山の人と谷の人で、陽の人と陰の人で違いますが、相手中心のお客様へのもてなしも、空間にあった優しいほのかな香りが喜ばれるのでしょう。香りの苦手な人もいます。好きな人もいます。焚いていてくれたのだと察するだけで人は幸せに感じる事が出来ます。空間を読める人、洞察力のある人、嫌いの少ない人、寛容な人、背の高い人で見えるおもてなしも違いますが・・・。もてなす側は焚いているという事で自己満足はあるかもしれませんが、相手に合わせた香りや、旅館へ入る前の序章の香り、その空間を高尚にしてくれる薫り。メインディシュまでの前菜程度の香りが好い?善いのでしょうか?どんな圧力にも熱にも耐える黄金の物差しで、魔法か正法か義法の柔軟な物差しで考えないと解かりません。来られる人の現状と気持ちの持ち方次第です。
気に病が宿った病気を治さなければ良くは感じません。
病気の人は人と接する旅行を控えて心の自然療法を先にするのが善いでしょう。
体調が悪いとご飯もおもてなしも美味しく感じません。
最上のおもてなしとは最初から最後までのおもてなし。目・耳・鼻・口・身の五感を満足させるおもてなし。目に見える景色(服装・表情・雰囲気)、声(音楽、接客)香り、味、温もり(思いやり、温度、肌触り)良いものを見ると豊かになり、なぜ良いのかを理解して今度は自分が求めるのではなく、自分が自分の出来る範囲で相手におもてなししてあげられるようになれば利益になるそうです。
逆にそう出来ない心の貧しい人がその美味しさを知ってしまったら、旅行や遊園地等の観光の楽しみを光を知ってしまうと今のこの現状の生活が辛く貧しい陰のものだと気付いてしまう。餓鬼のように求めて得られないのは苦しみである。与える事が出来るのは自分にとって喜びである。
それはプラスなのかマイナスなのか?気持ちの持ち方次第!祭りも遊園地も宴会も非日常的な晴れ舞台。
夫婦も料理も繁栄も、上流の美味しいものを知ってしまうと知らなかった頃には戻れない・・・。
知ってそれを他の為に活かす事が出来れば善いそうです。赤と黒を半分混ぜたワインレッドのようなゆっくりした時間。
お線香を供えてあげようとも仏様は「ありがとう」とも「美味しい」ともいいません。
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伽羅のお線香をあげるときなんて「一万円 」もしたのに・・・仏様はなにも言いません。
お中元やお歳暮をお世話になった方へ送ると『ありがとう』というお礼の言葉が届きます。
お釈迦様は「布施行」を皆に勧めました。
良いものには見返りを期待しない慈悲の心を持って、皆様に勧めたくなるものです。
『己を忘れて他を利するのは最高の慈悲の極みなり』
伝教大師 最澄
お釈迦様は施しがたい物(大切なもの)ほど施す方が良いと申されたそうです。
大切にしている物程無くなった際に悩みを生み、そして苦しむからです。
お線香を供えるのは施し、布施の精神。仏様は何も言ってはくれませんが勿体ないなど思わず物惜しみの心を捨て仏様が喜ばれるならと進んで仏様や世間の為に骨を折るそんな柔和な心の人には仏様があらゆる所に見えるそうです。
相手が喜ぶならと大切に思い持て成す与えきりの慈悲の心を頂く修行でもあります。(布施波羅密)
「お中元お歳暮」などにもいえるそうです。困っている事を助けられれば有り難いが、困っていない事では有り難くはありません。困っているのを助ければ喜ばれます。
お釈迦様は全ての物には形が無くありとあらゆる物が互いに関係しあい成り立っていて、人にも我は無く全ては 「空」 であると説かれました。縁によって生じて縁によって滅びるのは永遠不変の真理。
自分中心でなく、他人も大切に出来る囚われのない 「もっと大きな空のような心」 で全てに接しなさいといわれたそうです。
人は大空を飛ぶ鳥には魅力を感じるが、籠に捕らわれた鳥にはそれ程魅力を感じない。
摂理の中、自然の大海を頼もしく生きぬくシャチには魅力を感じるが、生け簀で餌を与えられる魚には魅力を感じない。
人は執着によって良し悪しなどを決め悩み、そして苦しみます。 学歴・収入・線香・香りなど・・!(無明・貪愛)
心に好悪を起こして執着してはならない。好むこと、嫌うことから悲しみが起こり、恐れが起こり、束縛が起こる。
自分の好きなお線香の香りに執着し、餓鬼、餓鬼と貪れば大切なことも見えず 「餓鬼道」 へ、
お線香の香りは上手く使えば妙薬になります。(妙とは仏教で最高の状態を指します)
川は人にとっては川と見えるけれども、貪りの世界に住む水を火と見る餓鬼にとっては川とは見えない。
五官(目・耳・鼻・舌・身)の戸口を守らなくてはならない。
餓鬼から見れば目の前では様々な煩悩の川が流れていて欲の炎となり燃え盛っています。
餓鬼の目からは清らかなもの、幸せな家庭でさえ、全て自分の欲を満たそうと利を謀り燃え滾って見える。
あの人にとっては大切な物。この人にとっては要らない物。私には「良い香り」でも、あの人には「嫌な香り」のお線香。
「良いお線香と言っても六道の住む世界と、人の好み、執着の計らいによって違います。」
ご先祖様はこの世の好き嫌いの執着を一切経たれ、極楽で教えを楽しんで聞いておられるといいます。
仏さまに成られた 「ご先祖様の好物」 は清浄なものです。どうすれば喜ばれるでしょうか?
人間の智慧で「相手の状況を考えた思いやりと真心」で盛大に持て成してあげて下さい。
値段の高いお線香が本当に良いお線香でしょうか?
自分の好きな香りが良いお線香でしょうか?
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人間は「好き嫌い」で物事を判断します。仏様はこのような香りもあると「特徴」としてみるそうです。
大きい家、小さい家。良い悪い。大きいのはうらやましいなと良いと考えがちですが、大きい家には大きい家の、小さい家には小さい家の良し悪しがあるそうです。
隣の家や家庭を見て良い悪いはねたみや嫉妬の心を起こします。素晴らしいと感動するのには向上心が湧くそうです・・・
同じ場所で生活する場合どうすれば良いのでしょうか?夫婦でお線香を使う場合どちらの好みのお線香を毎日使えば良いのでしょうか?旦那が留守だから・・・自分の好みで・・・若い人がお線香の香りを嫌がるので・・・私も幼いころは好きでなかった?主人の先祖だから主人が供養すれば良いのに私ばっかり・・・(そう思うと上手く回らないのだそうです。主人は自分に忍耐と寛容さを実行する機縁を与えてくれていると考えると善いそうです)寛容さは相手がいないと授かれないのだそうです。
疲れを演じて一度主人に体験する機会をもって貰っても善いそうです。
演じる優しさ。偽善も心からしていなくても相手には光が射すそうです。
顧客満足度、相手の満足度を上げるには、思いやりと真心と気遣いのおもてなし、演出と演技が必要です。痒い所に手を届けてくれる有り難いと思う瞬間のサービス。
頂いた線香が自分の好みでなく若い人も嫌がる場合もございますが仏様へのもてなしである。自分も相手の為に耐える耐え忍ぶ行がご先祖様のお下がりで頂けますし、たまに嫌な香りのお線香を焚けば好きな薫りが鮮明になるという事を理解しないと苦難を生む。
若い人が嫌がるのはまだ仏様が出たばかりで心が養われるレベルアップしていないのか、たまにお線香を供えるので習慣がなく嫌と思うかも知れないが、慣れて徳と寛容さが備わってくれば良い香りに思えてくる。御婆さんの家の薫りがすると若い人にも記憶させる事が必要。それこそ陰徳を積む事になるでしょう。
神仏を拝む習慣のない次男の家の一人目の子供から先祖を敬うことを始める事が大切で、経済状態が悪い時などは特に大変な思いをするので十字架に耐える訓練をした方が好いでしょう。
腰を降ろしてお線香を供える事ができる小さな崇拝物。
やがて子供も心が穏やかになり余裕が生まれ薫りの善さに気付く。
朝は忙しいですが今より30分早く起きて仏様の前に座る前に口を濯いで花の水とご飯を変え落ち着いて気を静めて手を合わせます。良き人生は朝の一瞬できまる感謝の喜びではね起きましょう。
自分を安逸にさせる短いお線香、煙の少ないお線香。もう戻れない。
子供は親の嫌がる事は辞めてくれますか?過保護は親の自己満足であって育てる子供をわがままにする。子供が当然自分でできるはずのことも、わざわざ手を貸したりしていませんか?わずかの苦労でさえ避けさせて、ただ子供を可愛さ一途に育てることを親の愛情であるかのように勘違いして、親がこのような育て方をすれば、子供は次第にわがままになり、いつまでも独立心や自主自立の精神が備わらず、依頼心ばかりが強くなって、将来、世の荒波に耐えていけない人間に育ってしまいます。親が不満に思える身近な人から自分は鍛えられ磨かれていく。親やご先祖様を大切に思う心の現われが礼儀となり社会秩序の基となる。マンションだから忙しいから、言い訳がうまくなるほど向上への道は閉ざされていく。
家族一緒に仏様や神様のもてなしを出来れば好いが、自分ひとりのもてなしも辞めれば家族は徳を積んでもらっていないので自分の番になった時には安逸と怠惰の生活になれて活力や向上心も失って、虚しく愚かな人生を歩むことになっても戻れない。
機会は努力する者を訪れ怠ける者から去っていく。努力精進なしに掴んだ幸福の多くは悲劇を残して去ってゆく。
夫婦でも好みは違うように、もっと大きな心で、相手のことを考え耐え忍ぶ(忍辱波羅密)ことも大切らしいです。自分は中華料理が好きだが相手に合わると協調を生み相手は満たされ喜ばれます。
話し合い互いに好いのを見つければ良いが、自分を良く見せようとする翼を広げた状態はしんどく大変で、自分を実質以上にみせようとすると嘘や言い訳が多くなる。自分の意見を聞いてほしいと思うなら、自分の思いは後回しにして、まず、人の言う事を聞く事から始めなければなりません。人の言うことを聞いてみて、初めて人の気持ちや考えも理解出来るわけで、最初から解かっていると思い込むのは、人間の傲慢であり、錯覚に過ぎない。ただ妥協し譲るというのではなく、人の立場や気持ちを思いやり、人を大切に思い尊ぶ心を持って人に接して欲しいものです。
敬愛と忍耐、寛容さを育てていくと安穏な日が訪れるのだそうです。
敬愛=尊敬すると同時に親愛の心をもつこと
忍耐=苦しみ・怒りなどをがまんすること
寛容=度量が大きく、あまり人を責めないようす
安穏=変わりがなく、おだやかなこと。ぶじなこと。
お爺さんお婆さんは昔を振り返り話します。「物のない昔は、花祭りに水筒を持っていき仏様に甘茶を注いでお誕生をお祝いしてそれを貰って帰り、家のご先祖様にも供えてお下がりを美味しく感謝して頂いたものだ。最近の若い者は自分中心で好きや嫌いという・・・。
飲み物や沢山の物が揃う現在の人々が飲むとあまり美味しい飲み物ではないが、仏様に供える好き嫌いを超越したものだ。ご先祖様に失礼だ!」
自分の好きなもの手に入れ、自分の好きなことが出来る現在は犯罪も多発しています。
亡き祖母は言いました。「近くのお寺で毎年していた花祭りには人が集まらず次第になくなり、ご先祖様もお世話になっている仏教を初めに説いて下さった根本、先人の有り難いお釈迦様の誕生を祝わせて頂ける楽しみが一つ減りとても悲しかった・・。
辛い日々が続いたそんなある日の夜、夢に出てきたお釈迦様にお告げを受けたそうです。「感謝の心は形を求め、形は心を勧める・・・。もしあなたが因縁によって形を求めるのなら、甘茶を線香にしてご先祖様の命日と花祭り、ご本尊様の縁日に仏壇で甘茶の線香を捧げなさい。好い事が有った日に感謝して捧げ、悪いことがあった時にも反省して捧げるのならば、花祭りを祝う事が出来ない人も、家族だけを大切にする人も、貪りの餓鬼道からその功徳で皆を浄土へ導いてあげよう」それから祖母は潤いを手に入れ極楽へ往生しました・・・。(姿や形だけに囚われてはいけませんが姿勢を正すことは大切だそうで、気力は目に現れ、生活は顔に現われ、年齢は後ろ姿に、人柄は笑顔に現われるそうです)
恋は自分を満たそうとする下心、(あの人と食事がしたい。・・・〜がしたい)相手はOKしていない願望である。愛は相手の幸せを願い相手を満たそうと考えるので犯罪などは普通おこらないそうです。思いやりが足りないと犯罪になります・・・。離れるのが相手にとって愛の場合もあるそうです。
人には悪と善があり、求める心と悪の心を抑える鍛練をしなければいけない。
若い少女を見れば自分の妹や娘と思い浮かべ、相手の立場になり考える心を規制しなければいけない。
生活に支障の出る高額で欲するものを見れば素晴らしいと感激して、その後感情でなく悪魔の投げた甘い罠だと理論で納得しなければいけない。甘い蜜は魅力的、しかしその欲望の重さに人生の命綱は磨り減っていきます・・・。
自分中心でなく仏様が喜ぶなら、相手が喜ぶならと相手の身の上や心情を考えることが出来る思いやりの心があれば犯罪も起こらないそうです。
最近は様々なお線香がありますが、仏壇で仏様を大切にもてなす行為は知らぬ間に息子や孫などの子供達もそれを見ていて、一緒に行い謙虚・感謝・思いやりの心が養われていくのだそうです。
親は社会で一緒に全ては教えられないので家庭での有り難い教育の場所です。
仏様のお誕生を祝う甘茶のお線香には、ご先祖様やご縁のあった方、それとご自身が仏と成ってお誕生を迎える事が出来るように人々が互いに「思いやり」と「真心」を養い幸せになっていくのだそうです。
そのお線香にはどんな意味があるのか?焼肉好きだったから焼肉の香りが良い?仏様の食事?相手は?自分は?無知な知ることがもう無い仏もいれば、無知な何も知らない、知らぬが仏の人もいる。
お釈迦様は見に見える色欲に流されてはいけないと言ったそうです。色は良い香りを発するが、それは幻で散っていく。悪魔の投げた餌であると・・・禁断の果実に手を出してはいけないと!
後ろを振り返ってはいけないと言われれば振り返りたくなる・・・それで道は決まってしまう・・・(親のいう事はある程度聞く方がよいそうです。悪魔の投げる餌を知っている・・・先に生まれて先に失敗を経験した先生だから。なぜなぜなぜ???なぜなのかと年配の方に聞いてみましょう?)
詳細は国産み、神産みをそれぞれ参照
天地開闢において神世七代の最後にイザナミとともに生まれた。国産み・神産みにおいてイザナミとの間に日本国土を形づくる多数の子を儲ける。その中には淡路島を筆頭に本州・四国・九州等の島々、石・木・海(大綿津見神)・水・風・山(大山津見神)・野・火など森羅万象の神が含まれる。
イザナミが、火の神であるカグツチを産んだために陰部に火傷を負って亡くなると、そのカグツチを殺し(その血や死体からも神が生まれる)、出雲と伯伎(伯耆)の国境の比婆山に埋葬した。
しかし、イザナミに逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉国まで逢いに行くが、そこで決して覗いてはいけないというイザナミとの約束を破って見てしまったのは、腐敗してウジにたかられ、雷(いかづち)に囲まれたイザナミの姿であった。その姿を恐れてイザナギは逃げ出してしまう。追いかけるイザナミ、雷(いかづち)、黄泉醜女(よもつしこめ)らをやっとの思いで振り切り、黄泉国と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口を大岩で塞ぎ、イザナミと離縁した。
その後、イザナギが黄泉国のケガレを落とすために日向国で禊を行うと様々な神が生まれ、最後にアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子が生まれた。イザナギは三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。しかし、スサノオが「妣国根之堅州国」へ行きたいと言って泣き止まないためスサノオを追放し、淡道(淡路島、淡路市)の多賀に篭った。古事記の写本の一部には淡海(近江、滋賀県犬上郡)の多賀との記載があるが古事記では近江を近淡海と書いており淡道の誤写ではないかと考えられる。日本書紀では淡道で統一されている。
又、現在の日本の事を浦安と名付けたと日本書紀に記されている。
仏様はどうすれば喜ばれるのか?見返りを期待せずに心から仏様を大切に思い相手の身の上を考え、物事を利益で判断しない利益でなくあらゆる現象の背後に存在する (この行為にはどんな意味があるのか?)仏壇も沢山ありますがなぜこの仏壇が私の宗派に良いのか?経を他人に唱えて頂いてどんな意味があるのか?
自分に起こった目の前にある事をなぜと考え真実の姿を見ぬく正しい判断、正しい智慧(般若波羅密)を身につけましょう。
「お線香を焚く事や仏様をもてなす事は相手のことを考えるなど様々に良いそうです。」
人に閃きを与えてくれる門出。
どんな薬もまず心の病を治してからでないと効かないそうで、気を救ってもすぐ自分中心の病気に戻るそうです。心を整えるには環境も必要です・・・
お釈迦様の教えに苦と楽の間に道がある苦楽中道という教えがございます。苦と楽の間に道があるという教えで、香りは良くも悪くも無く平らになり苦悩を除く仏様のご馳走甘茶香を焚き、気を静め無の境地に近づけたなら一つの特徴と感じ、好き嫌いを超え仏様を思い描ければ慈悲の心を頂けるのだそうです。
感謝とご先祖様に供える気持ちだけが残ります。
最高の功徳とはどのような善行も自ら進み喜んですることが出来る。施したものと施した相手を共に忘れ善いことをしても善いことしたと思わずその行為が知らない内に普通にできていることだそうです。
香りや善行にも見返りを期待せずに相手が喜んでくれるなら、自然と相手の喜びを喜ぶ 慈悲の心 はきっと生まれます。
ご自身の心を冷静にしたり大らかにしたり無の境地になるのを 「沈香」 などは補助するそうですが、座禅を組んで無の境地に成ったお寺様が 「あーいい香りの線香だな」なんて雑念はないそうです」
香りに本質があるのではなく、その奥にあるものを得るのだそうです。
川に小舟を浮かべて釣りをする独りの老人。欲から隔離された所で修行する禅僧。山にこもって修行する仙人。周りに自分の欲する物が無ければ環境が整いそれに集中する事も出来る。
釣る者、釣られる者。釣る者は論理で、釣られる魚は感情です。考えず魚のように悪魔の投げた甘い餌に感情で食いつくと釣られます。
一行三昧をしている人を見ると楽しそうに見える。暇だなと思っていても穏やかだなと思っていても、何も喋らず行う姿は、第二者から観れば熱中して取り組んでいるように思う。
その釣りをしている老人を見ている人を遠方から見る人。また違った世界が見える。
豊臣秀吉は丁稚の頃、思いやりで草履を温めておいたといいます。
相手がどうすれば喜ばれるのか?寒くないかと察する??
出世したりする人は相手を満たしたいと思う人。不便、困っているのを察して知り、それに応えて満足が得られ喜ばれます。相手が困って要る事でないと喜ばれません。
豊臣秀吉が作ったといわれる「金の茶室」は気持ちを落ち着かせる環境の副作用はなく、高揚してしまいます。
お茶をする人が環境が伴わなくても冷静でいられるかを試したのでしょうか?
環境が叶ったときだけ冷静でいれる?
お寺の住職は??華道、香道、茶道は??
全てを満たす満足は恩を忘れて離れてしまう・・・?
お茶の繁栄を築いた千の利休は、闘牛と同じ・・・???
赤と黒の動と静の関係、☆と+。様々な角度から見ると違うようです・・・
利休は千の利益を頂くのを休んだといいます。
人は環境が適うと親切で謙虚で静かに入ることが出来る・・・。環境が心に逆らっても、なおそのように豊かにしていられるかが問題だそうです。
衣食住が容易に得られ、自分にとって面白くない言葉が入ってこず、相手が明らかに自分に敵意を見せてこない時には相手を救いやすいそうです。
心・精神を保たれると良い香り悪い香りなどあるわけはないのだそうです。
まして頂いた財施のお線香には空気を読み相手へのもてなし言葉の布施で気持ちよく法施してくれます。お寺と檀家の関係はそれで成り立ちます。お金が無くてもおもてなし。
1 眼 施 がんせ 慈しみに満ちた優しいまなざしで、すべてに接することをいいます。温かい心は、自らの目を通して相手に伝わるのです。
2 和顔施 わがんせ 和顔悦色施ともいいます.いつもなごやかで穏やかな顔つきで人や物に接する行為です。喜びを素直に顔の表情にあらわしましょう。
3 愛語施 あいごせ 言辞施(ごんじせ)の別称もあります。文字通り優しい言葉、思いやりのある態度で言葉を交わす行ないを
いいます。
4 身 施 しんせ 捨身施ともいいます。自分の身体で奉仕をすること。身体で示すことをさし自ら進んで他のために尽くす気持ちが大切です。
5 心 施 しんせ 心慮施。他のために心をくばり、心底から共に喜び共に悲しむことができ,他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れる心持ち。
6 牀座施 しょうざせ たとえば自分が疲れていても電車の中で喜んで席を譲る行為。また競争相手にさえも自分の地位を譲って悔いなく過ごせることをいいます。
7 房舎施 ぼうしゃせ 風や雨露をしのぐ所を与えること。自分が半身濡れながらも、相手に雨がかからないように傘を差し掛ける思いやりの行為など。
線香は一度火をつけると最後まで燃えるように、一度やり始めると最後まできちんとする。
お線香は我が身を燃やして人によって受ける恵みは違いますが、人に癒しや安らぎを与えきりで自分の事は何も言わずに香りを平等に持て成すように、自分のエネルギーを燃やして、周りの人々を笑顔と元気でヤル気を持て成し、損得でなく、会社(城主)のお役にたてれば、皆様のお陰で仕事ができているという感謝の志で働き、働けることに感謝して会社(お城)に皆様に利益という癒しをもたらすこと。お線香はこれだけ私はしたとはいいませんが、人は利益がでて還元されると喜びますが、負債が出て減額されるとヤル気をなくします。会社はそれで100lです。沢山儲けた時には沢山税金を払って、負債が出た時には後の祭りです。上がる、下がるではなく負担してもらうのを増やせば借金は減ります・・・。しかし増える人が出てきます。仕事は進んですれば喜びとなり、嫌々すると苦痛になる・・・
(今の会社は昔で言うお城の制度と似ています。いつの時代も本質は変わらないのでしょうか?)
毎日のお勤めにお線香をあげる本数は一本・1本?三本・3本?
線香立て方あげ方は?
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葬式の時に線香を焚いている本数が一本なので、亡くなった時だけが一本?と思われるかたも多いようですが・・・
それは誰が広めたのか毎日二本お線香を御供えしているのをよく聞きますが、各宗派の頭脳ともいえる宗務所では一言も2本とは言っていないのでは?周りの人も判らないので曖昧に答えたのが広まったのでしょう。各宗派の宗務所に電話すれば教えてくれます。何も知らないまま曖昧に進むのではなく、きちんとした人生を歩むにはまずその適当なまま進む状態の人生を正さなくてはいけないのではないでしょうか?
お線香は半分にしたり三等分したりすると自分の寿命も短くなる訳はないのですが、仏前でお線香をもてなす時間はゆとりの時間・・・。お線香をあげるとは、お祀りして頭より上に押し捧げる場合にも使われますが、お線香を立てる場合と違う場合(横にしてお供えして使う場合)にも使われる。地位や立場の低い民が目上の人や立場の高い神仏に物や気持ちを押し上げる。
昔女郎は時間を計るのに用いたお線香を、自分に配慮して都合よく短くしたという。お客様は同じ金額を払ってもサービスが短くなりますが、女郎は同じ時間で沢山稼げるというご自身への心配り。寺院などでは高い存在に捧げるお線香が途中で失礼しないよう、法要の時間に合わせた長さのお線香と結納のように前もって礼儀のために馳走し用意する。
ご先祖様のお食事といわれるので失礼のないように毎日、朝昼晩に三本ずつあげても本当は善いでしょう。自分の選んだ行為は広がって行きます。
宗派により線香の上げ方や方法・本数が異なるようですが、基本的に浄土宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗は、線香は1本で、天台宗と真言宗は、線香は3本というのが多いようです。
普通14CMぐらいのお線香だと30分の燃焼時間がありますが、最近の自分は30分も拝まない。お茶も飲む暇も無くに 「お寺様は10分ぐらいで帰る」 という方は、皆忙しいので半分に折り時間と香りの強さを調節してお使い頂いても結構ですが、線香の長さは気の長さ、その行為は心のゆとりの長さと言われ広がります。
浄土真宗の方(本山での香炉の灰に供えたお香(粉末)を再現して家庭では横にして使うそうです。)や創価学会の方は短いお線香を横に寝かせて使う事が多いようです。(香炉に納まらない、長いお線香の場合は半分や三本、四本に折る。香炉を大きいのに買い換えても良いでしょう)
購入する際、相手が専門家なのに聞いてくれないのも好くないですが、求める時には何宗なのか自分で伝えましょう。
一本の線香に心を込めて仏さまにお供えしても喜ばれるそうですし、三本の線香の場合、仏(お釈迦様)法(その教え)僧(その教えを正しく伝えるもの住職他)三宝に感謝して使う場合、過去・現在・未来へ供養する場合、「仏様の数だけ」供養する場合もございます。
有縁仏・無縁仏・ご本尊様にお供えする、人間の貪り・怒り・愚かさの三悪を懺悔するために線香は三本ともいわれます。
「仏様は相手への思いやりと真心を食される」そうです。元々はお焼香、香を焼いて祈りを供えていましたので線香の本数に関係なく感謝の気持ちでこの心がわけ隔てなく 「ご先祖様の世界にも届きますように」 と 「心を込めて」 焚かれると良いでしょう!お焼香の回数も同じですが周りへの配慮が必要だそうです。
人間と同じように仏様の大切な日には仏様をお祝いする線香『仏様の好物甘茶香』で祝ってあげると喜ばれるでしょう。
お寺さまも線香の本数は一本でも三本でも良いとおっしゃいます。副住職と住職で本数が違う場合もありますし、線香の本数や香りを仏様は頂いている訳ではありませんので『線香の本数や仕方に関係なくこの『心』が諸仏諸菩薩を供養し、ひいてはご先祖様の世界にも届きますようにと皆が幸せになれますようにと真心込めて使ってあげると善いそうです。』
お線香の灰はどうすれば
善い?(道徳的によい、善い人、善い行い)
良い?(一般的によい、良い習慣、品質が良い)?塩?
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最近では「灰の少ないお線香」など出てきたそうですが、お線香の灰はどうすれば善いのでしょうか?完全に消滅させれば良いでしょうか?線香は儚いもの。煙も灰も香りもまた儚く優雅な世界。
人で考えると善いそうです。使うだけ使って 「成功すれば」 「灰になれば」 「溢れてくれば」 ゴミ箱に捨てる。それは良いことですが善いことでしょうか?
ご先祖様もお墓の中で灰になった時、お墓の骨が溢れてくればゴミ箱に捨てるような事でしょうか?
お墓にお水をかけるのは、本当はご先祖様の骨を早く溶かして自然へ戻してあげる意味があるそうです。
現在は骨を骨壷に納めてありご先祖様にはこの世に足を置いてきたような感じもしますが、残された人の心を満たすために残してあるのだそうです?
線香の灰も同じように 五大要素(火土水風空) 自然の流れに還元してあげると善いそうです。 「燃(火)やしてあげる」 「自然(土)に戻してあげる」
「自然の川(水)に流してあげる」 「大気中(風)の仕組みに流してあげる」 「大空(空)の一部にしてあげる」
線香の灰がたまってくれば「近くのお寺に行ってお断りを入れてから香炉に入れさせて頂く、近くに自然の河があれば流してあげる」のが道徳的に善い作法です。清めの塩を灰の変わりに使っても善いでしょう!
現在気をつけて考えなければゴミ廃棄処分でお叱りを受ける場合もあります。
ゴミ箱に灰を入れても循環しますが、申し訳ない、失礼と思えば懺悔して心を洗う甘茶香で心を清らかに保ちましょう。
※灰の中の燃え残ったお線香が勿体無い、どうにかできないものか?と仰る方がおられますがそれは取り出して適当な大きさの粉にしてお焼香として供えたり、灰の上でお線香を横にして使えばその悩みは無くなります。
香(かおり)という頂点のピラミッドがあり、(薫りは比喩的、抽象的で)例えば白檀木を飾っていると『置物』です。分割(チップ)にして香席やお茶席でお客様を持て成しに使うと 『お香』 です。
粉末にして袋に入れると『匂い袋』です。炭の上でお葬式や仏壇で焚くと 『お焼香』。
もっと細かい粉にして体に塗れば 『塗香』、粉の香を線にすると線状の香 『線香』。ものは同じでも、用途場所によって呼び名が違います。不浄な心と体の内を清めたり、外から受けるのを防ぐのに用いられました。昔は仏様に香の粉末を燃やして 『祈り』 を伝えるお焼香として供えていました。
香を線状に固めて燃やすようになったので線状の香り「線香」 です。火種が要らずご自身に便利なので主流になりました。お香も線状になっているのがありますので、ご先祖様をもてなす際が線香。ご自身が楽しむ行為、お客様をもてなす際がお香と考えると良いようです。
お線香は仏様への厳粛なおもてなし、捧げ物。お香はご自信お客様へのおもてなし、嗜好品。
白檀の線状の物でも、線香臭いといったり、和のお香の香りがするといったりします。違いがあるとすれば線香は毎日の事なのでほのかな香りになっているのが多く、お香はおもてなしに使うので香りが残るのが多いという事でしょうか?薫香は燻らせて非常に好い匂いを発する香料。薫物は比喩的、抽象的な物。
最近ではお線香にも 『仏様の喜ぶ甘茶香』 『香水香』 など様々な種類のお線香が出てきましたが、仏さまとご先祖様に 『祈りと感謝』 の 「心を込めて真心が届きますように」 と 「仏様をもてなす」 一つの方法が 『お線香』。ご自身が 『楽しむ時やお客様をもてなす』際は 『お香』 です。
仏様のもてなしには、花、水、香、灯、塗香、米、生前好きだったものなどあるようです。
お線香と線香花火、共通点は儚いところ・・・。散ってゆく、壊れてしまいそうな繊細な一時。
竹に火薬を付けて先端に火を点して皆様で楽しむのは花火です。供えると身の上を考えると仏様はどう思うでしょう?昔は手に持ってするのではなく、線香のように鉢に挿して楽しまれていたのでそのように呼ばれているようです。
自分が喜ぶのでなく仏様がどうすれば喜ぶのか考えないといけません・・・
お茶も煮出すのは大儀で面倒だからペットボトルか水。しかし自分の利便で無く相手が喜ぶならやってあげようという奉仕の心が大切。
お線香を半分に折り、それをご自身が楽しむ時やお客をもてなす際に使用するとそれは『お香』です。
花をこちら側に向けるのは、仏の慈悲を感じ、心を癒されるのは自分だからでもあるそうです。
人は精神的なものにはお金はかけない人もいるといいます。賽銭でも祈祷でも仏壇でもお線香でも花や造花でも精神的になら『しているから大丈夫』だろうと、ご自身が楽になるこの行為には自分で自己暗示をかける事が出来るそうです。
仏壇で仏様をもてなすのはおもいやりと真心を培う場所です。習慣でなく気遣いが必要です。
『ご自身にとってではなく、それは仏様のためなのか・・・どこが仏様や相手にとって良いのか?』
○花はご自身のほうへ向かせている?
◎こちらを向いている方が綺麗なのでこちらに向かせた。
=皆がしているのでそれが普通だと思う。
●本来は=本当は仏様のもてなしだから花も仏様の方へ向けてあげるとよいのです。
花を仏様のほうへ向かせればよくわかるそうですが、供え養われる心の平安が中々得られません。
色に囚われてはいけないといいますが、仏像と同じく花は悲しみ悩み深い私達に現れた仏様の慈悲の現れで安穏へ導く象徴なので救われるこちら側を向かせても良いそうです。
○煙も香りの無いお線香を使っている?
◎煙も出ず香りもしないお線香にした。
=マンションなので煙で自分が困る・・・新しい家が汚れるので・・・自分の好きな香り・・・皆もそうしているので良いのだと思う。
●本来は=環境も変わり家族にアレルギーや喘息の人がいて煙も香りもないお線香を使わせて頂いている・・・。利便性だけを求めると安易なことも苦になってきます。
仏さまが喜んでくれるなら仏像や仏壇が汚れてもお金を出して新しくすればいいですし、仏様はお線香の清浄な香りを頂いているそうで、香の煙に乗って信心が伝わるといいますので仏様のために本当は煙と香りがあるのを使ってあげると善いでしょう。
それは自分にとって楽になるけれど、天使の投げた蜜、それとも悪魔の投げた餌?環境も家族も性格も預金も今ある状況も皆違うので宗派が沢山あるのです。お住職様とお話しするいい機縁です。
○ご飯が美味しくなくなるのでご飯の写真や造飯を飾り仏様にご飯は供えていない?
◎先に仏様にご飯を供えると線香の香りがつくので供えるのはやめた。
=楽だし仏様にも周りもなにも言われないしいいだろう。
●本来は=ご自身は楽ですが、仏様は清浄な気持ちを召し上がるそうです。
○仏壇を購入しない?
◎マンションは狭いしお金もないので仏壇を購入するのを止めた。
=仏様はなにもいわないし、生き仏様の方が大事。
●本来は=仏壇はご先祖様のお家だそうです。神仏を先祖代々大切にしている家庭はその徳のお陰で現在平和で裕福な家庭も多いと思います。今現状があるのは先祖の徳の結果。子供が社会に出る前に家庭内で様々な事を教え教育出来る唯一の場所だそうです。道徳は家庭で教育します。
◎なぜ =原因 ●本当は
○墓石も仏壇も電化製品も肉もお線香も・・・など外国製品?
◎日本は人件費も高いので日本の生産を止めた。従業員を賃金の安い国の人にした。外国で作った製品の方が仕入値安く利幅も大きい。自分が生き残るために他より安く売っている
=価格競争が激しいので費用の安い外国で生産販売。仕入れ。
●価格破壊、過当競争、消費者の様々な負担増。消費者には初めは安く提供できて喜ばれますがどうなるのでしょう?
100円で販売するのを400円で売れれば、機械があれば・・・
売る人が生き残るために別に生産者は安ければどこでも良い時代。お店も問屋も窓口が多過ぎるので自分のPB商品を販売する為に動く。
それを使う人は必ずどこかで求めるが、賃金や小売上代の金額だけが下がっていきます。
その商品と同じ分野の物を製造する会社は太刀打ちできません。
日本もアジアもそうだったようにもっと安いところで作って・・・
最後には最新鋭の機械で人は全くいらず機械だけ・・・。
日本人の仕事が無くなり人の仕事は食べること、寝ること、子孫を残す事だけの時代が来るかもしれません。利便だけを求めると何でも無いことが苦になってくる。働く人も働かせる人も。
販売する人はとりあえず良いそうが、作る雇用は無くなります。そして現地の人が出展した場合?それもいつまでも続かないそうです・・・。片方が伸びれば片方は下がります。
最近は観光客に外国人が多いようですがブランドでないものや海外に輸出できない、ブランドでない全国の観光施設、商店街、スーパー、国と同じように、日本人の全体を潤うためには高くても売れるブランドにするのか、国自体が潤わないと止まりません・・・。
個人が焦げ付き、商店街も焦げ付き、企業も焦げ付き、銀行も焦げ付き、国も焦げ付く。
足の引っ張り合い。
相手に迷惑の掛かる焦げ付き滞納は犯罪です。
○お墓のお線香は燃焼するならばどんな物でも良い?
◎風が強いので燃えやすいのが良いと思う。
=お線香はみんな墓用といって安くて燃えやすいのを使っている。燃えやすく安いのが良いのは自分の理由です。
●燃えればよいのなら雑草でも、火薬を付けても、油を付けても良いと思います。お線香に火を点ければおしまいではなく、この心と相手に伝えたい祈り、善い香りが届きますようにと本来は思いやりと真心でもてなすそうです。父は普段家族と接する機会が少ないと思いますが、火が付き難いという困難を、家族の先頭に立ち一家の大黒柱としての威厳を見せる機会でもあるのです。台風や大雨でも皆で苦労して付けたお線香には家族一緒に深い感動を覚えるものです・・・。容易い。有り難い。有るのが難しいので「ありがとう!」
ある夜、お釈迦が祇園精舎へ入られる時、皆それぞれに百、あるいは万のあかりを供養しました。着のみ着のままの老婆も東奔西走して、ようやく一燈をともすことができました。やがて大風が吹くと、あかりは消えていきましたが、信心が強く、志が深い老婆のあかりは消えなかったそうです。私たちの幸せは、このように信心と志によって生まれてくるものだそうです。簡単に出来た事はすぐに違うのに変更できますが、苦労して手に入れた物や、辿りついた事は心が入って中々変更出来ない深い渦のようなもの・・・
○電池式のロウソクをお供えしている?
◎お婆さんが一人で暮らしていて、ロウソクは危ないから電気にした。
=自分は若いが、普通のロウソクでなくても習慣で電気式は良いのだと思いずっと電池式。
●本来は=本来は=ロウソクは仏様の道を照らす、炎は仏様の好む清浄な空間にするといい好まれるものです。風水では離婚が増えているのは電気式で火を使わない家に多いといいます。炎には人の心に情熱的に訴えるものがあるそうです。不動明王の炎!お年よりは危ないので電気式=安全で緊張感がなくなりボケが早まる可能性も・・・。親が子供に安心すると旅立つ、子供も親に適度な心配を与えると良いといいますが長寿の秘訣、揺らめく炎を見る行為には智慧が宿るそうです・・・。
○電池式のお線香にしている?
◎老人ホーム、病院で使いたいので電池式にした。
=電池式のロウソクがあるので電池式の線香も良い。
●本来は=香りと煙が線状の香、線香であり、先端だけ光る灯りはロウソクなので模擬品でしかありません。
○花は枯れるので造花にしている?
◎お墓等で花や樒などは枯れ虫が来るので造花にした。
=皆もしているし売っているので造花でも供養になると思った。
●本来は=仏様は植物性の物を好まれます。虫も寄って来ない造花は自分の心を満たすのみ、生花は周りの人の心にも潤いを与えます。
○現状 ◎なぜ =原因 ●本当は
その行為にどんな意味があるのか?ご自身のことを考える。忙しいから・・・汚れるから・・・しんどいから・・・
自分の・・・表向きに悪いので・・・。そこには申し訳ないのですがという心がないといけないそうです。
自分が楽になる様に、自分の都合のいいように解釈すると全て簡略化しますが普通ではないそうです。
仏さまに、ご先祖様に、周りにどう良いのか?
例えば全て模型ならば、しているというご自身の心を満たす以外に本当に意味がないのです。それが普通ではなく、そうさせて頂かせているのです。あたりまえになってはいけないそうです。
『両者に救われる、救うその関係のみがある限り全ての人が全てにおいて救われることはないのでは?病は気からというように、現在、相手にあわせて自分が救われた気がする気の救済が多くあります。
今日まで神様と仏様の船に助けられましたが、自分に活かせるのを用いて今日からは幸せの明るい大船に沢山の人を乗せてあげると本当は善いのです・・・他をもてなす美しい花が沢山咲いている世界・・・』
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